「パリのアメリカ人」という呼び方がありますね。1920年代、文化爛熟する花の都へ、ヘミングウェイはじめ、フィッツジェラルド、ヘンリー・ミラー、ガートルード・スタインなど多くのアメリカ人が参集し、精神的アメリカ人村ともいうべき共同体を作り上げた。ヘミングウェイ『異動祝祭日』は、「パリのアメリカ人」たちの群像をみごとに描き出している。
さて「パリの日本人」。古本屋や古本市をひやかしているとわかるが、日本人のパリへの憧憬は独自なものらしく、じつに多くのパリ滞在記を残している。第二次大戦以前までの渡仏邦人は帰国後、全員が本を書いているのではないかと思わせるほどだ。
かつてパリに長期滞在し、今でも毎年のようにかの地で古書漁りをする鹿島茂さんが、このテーマに触手を伸ばさないわけがない。もちろん、これまでにも渋沢栄一、薩摩治郎八、中江兆民などは、連載などで伝記を書いている。今回は、パリ滞在に焦点を当て、十一名を取り上げる。
時代はベル・エポックから両大戦間、文人や芸術家をなるべく避け、軍人、政治家、実業家、それに皇室などを登場させているのが特色。前者と違って後者は「『頭』からではなく『生活』から」パリに入って行く、と著者は見ている。朔太郎が「旅上」で書いた「ふらんすはあまりに遠し」のような、湿気の多い叙情が少なく、彼らが描くパリの輪郭は明確だ。
明治の元勲・西園寺公望に始まり、江戸最後の粋人・成島柳北、平民宰相・原敬、京都出身の実業家・稲畑勝太郎、ただ一人の女性、妖婦・宮田文子など、その顔ぶれは似通ったものは一つとてなく、多士済々でじつにユニーク。フランス語に長けた西園寺公望は、当時の有名政治家とだけでなく、一流の文人や芸術家とまじわり、多くのサロンに出入りし、日本の文化についての紹介者となっている。「これだけは、後の時代の留学生には絶対真似できない」と著者は書くが、政治家だって真似できやしない。
時代によって彼らの目に映ったパリが違っていることにも本書は注目する。たとえば1920年から7年もパリに滞在した宮様・東久邇稔彦は、パリの印象を「停車場を初め、前の広場、ホテルへ行く間の道路もずゐぶん汚かつた。私が考へてゐたパリとはまるで違つてゐた」と書いている。
著者によれば、当時フランスは第一次大戦による疲弊で貧困の極地にあった。「狂乱の二〇年代が到来するのは、アメリカからのドルが大量に流れこんで、フランス経済が立ち直りを見せてからのことである」と言う。とにかくフランスのことなら、なんでもわかっている著者のことだから、解説がいちいち適確で、ぼんやり読んでいてもくわしい事情が頭に入ってくるのだ。
ところで東久邇の章でもう一つ、気になることが。若き宮様は、豪華なホテルに宿泊するが、長き滞在中に庶民の暮らしも経験する。フォンテンブローで借りたアパルトマンは、なんと電燈がなくてランプ、トイレは汲み取り式だった。つまり宮様は戦前でもアメニティの整った生活をしていたということだが、著者によれば、フランスの一般家庭では、一九八〇年代までアメニティ後進国だった。「花の国」は、「鼻の国」でもあったのだ。
また「とんち教室」学派を標榜する私としては、旦那・石黒敬七に一章を割かれているのがうれしい。この人物こそ「フランス人に柔道の手ほどきをした最初の日本人であったばかりか、在留邦人向けの日本語情報誌『巴里週報』を出したり、パリの蚤の市で幕末の銀板写真の発掘に務めたり、(中略)戦前の『パリの日本人』の大物中の大物だったのである」。この旦那のすごいところは、「パリまでやってきて初めて気づいたのは、自分は一言もフランス語を理解していないということだった」。なんとも人物のスケールが、いまどきの日本人とは一回りも二回りも違う感じだ。
それは、パリでのふるまいにも言えて、みな実に堂々と立派なものなのである。西園寺はレストランのガラスを割ったことで法外な弁償金を請求されると、それを払ったあげくに、次々とガラスをステッキで割ってしまった。稲畑勝太郎は職工に「シノワ(中国人)」と侮辱されたことで腹を立て、次々と彼らを投げ飛ばした武勇伝を持つ。つまりみんな「サムライ」だった。
ついこの間までチョンマゲを結っていたような時代から、急速な洋風化、近代化の波が襲った時、西園寺、東久邇、稲畑のような渡欧体験者の体験が充分に生かされた。稲畑は日本にシネマトグラフとモスリンを持ち込んだ人物だった。輝かしきパリがあれば、輝かしき日本人もいた。その強い光源を、いまはちょっと目を細めて、うらやましく眺めるだけである。