『犬はいつも足元にいて』は、タイトルや表紙の印象、犬を飼う小学生の話であることから<ほのぼの系>と勘違いされそうな小説だ。私も、途中までは安易にそう思っていたが、一向に肯定的な描写が出てこないことに、次第に不穏なものを感じ始めた。
舞台は、世界の中心が海ではなく公園であるような、袋小路を思わせる町。そこは排泄物と悪臭にあふれ、強い父も聡明な母も格好いい親友も可愛いガールフレンドもいない。とりわけ粘着質な同級生の男「サダ」の言動には気分が悪くなるし、主体である「僕」自身ですら、いい人間には思えない。ネガティブ・トーン全開の小説なのである。
最大のミステリーは「僕」の感情が説明されないこと。タイトな描写の積み重ねによって物語が推進してゆくのだ。これ、読んでいる側としてはもちろん面白いが、書き手の創作のプロセスもわくわくするような面白さだろうなと思う。主人公が勝手に動き出し、最終的には思いがけない地点に到達するのだから。過酷な現実をしたたかな客観性で描き切ったアゴタ・クリストフの『悪童日記』を初めて読んだときの衝撃に近い。
物語のポイントとなる「犬」についてのクールな感慨を例に挙げてみよう。
「言葉を話せないからこそ、僕たちは一緒に暮らすことができたんだと思う。僕の心を見透かしてしまうような生物が同じ言葉を使えたら、恥ずかしくて、いてもたってもいられない」
「犬の生きがいは、どれだけ僕の意思を汲み取って、そこからそれない行動をとることができるか、ただその一点に集約されているように思えた。僕はそのひたむきさが、いやだった」
だけど「僕」は犬の世話をきちんとやる。散歩をさせ、排便をさせ、餌とミルクを与える。汚れた犬を家に上げる時、きれいにする手間はかなりのものだ。だから、やがて飛び出す次のような記述に、私たちは驚くのだ。
「世話が僕の当然の役割である、というような感じになると、うんざりして犬を『なし』にしたくなる」
「そもそも僕も母さんも、動物が好きじゃない、というより嫌いなのだ」
「犬」にはお気に入りの場所があり、そこには、ひどいにおいのする「何かの肉」が埋まっている。小学生にとっての世界の中心には、わけのわからないものが埋まっているってことなのだ。この小説は、そういう<子供時代の封印したい謎>をわざわざ掘り起こそうという小説である。
著者は、そぎ落とされた文体をどうやって獲得したのだろう。その鍵を握るのが「大森兄弟」という筆名だ。著者のインタビューをいくつかの媒体で読んだが、この小説は紛れもない、兄と弟による合作なのである。私は『悪童日記』において、過酷な日々をサバイバルするために、主人公の双子が自主的におこなう数々の「訓練」を思い出した。ここでは、子供らしからぬクールな客観性で世界を切り取った『悪童日記』の成り立ちの秘密に迫る、作文の練習についての描写を引用してみたい。
「作文の演習は次の要領でおこなう。ぼくらは下書き用紙と鉛筆と<大きなノート>を用意し、台所のテーブルに向かって坐っている。ぼくらのほかには、誰もいない」
「ぼくらは書きはじめる。一つの主題を扱うのに、持ち時間は二時間で、用紙は二枚使える。二時間後、ぼくらは用紙を交換し、辞典を参照して互いにあいての綴字の誤りを正し、頁の下の余白に、『良』または『不可』と記す」
「『良』か『不可』かを判定する基準として、ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない」
「『従卒は親切だ』と書けば、それは一個の真実ではない。というのは、もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるのかもしれないからだ。だから、ぼくらは単に、『従卒はぼくらに毛布をくれる』と書く」
「感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい」
十代のころから小説の共作を楽しんできたという大森兄弟が、『悪童日記』の双子に重なる。大森兄弟もおそらく、子供のころから、このような形で作文の練習をしていたに違いない、と想像する。
『犬はいつも足元にいて』を読み、もうひとつ思い浮かんだ小説がある。多和田葉子の芥川賞受賞作『犬婿入り』である。お尻を舐める犬婿の説話から生まれた作品だが、そこに登場する排泄物やにおい、<エッチなこと>と<汚いこと>の区別がつかない子供たちの世界は、「何かの肉」が埋まった公園につながっている。
大森兄弟の小説には、子供時代の嫌な記憶と向き合わされるような不快感があり、途中で読むのをやめたくなったほどだ。しかし、最後には、思いがけない発見というべき境地に着地したので本当に驚いた。しかしその発見は、あまりに些細であり、袋小路に生きる小学生は、こんな細部に真理を見いださなければ生きていけないのか、というけなげさに泣けてきたのも事実。ある意味、治安の悪い戦時下の国で生きる子供よりも過酷な状況といえるだろう。
人間は、子供のころの記憶、身体に浴びた原液、染みこんだ悪臭のエッセンスを希釈し、香水の形に仕上げることで、その後の人生を美しくごまかしつつ生き延びていくのかもしれない。社会性とは、汚物の中にきらめく可能性を拾い集めることであり、悪意に満ちた世の中に善意の解釈を吹き込むことなのだ。
原液体験の強烈さは人それぞれで、感じ方も異なるだろうが、すべての大人にこういう子供時代があったことを想像すると、切ないし、愛おしい。自分にとって大切な人が、どんな原液のエッセンスから成り立っているのかは、ぜひ、知っておきたいものだなと思った。
そして、大森兄弟は、実際のところどんな幼少時代を過ごしたのか。今後発表される著作で、少しずつ明らかになっていくに違いない。
アゴタ・クリストフによる文学史上に残る決定的な名作『悪童日記』の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
『悪童日記』 レビュワー/朱雀正道 書評を読む