虚実を縄のごとくなって別空間を作り上げるのは、辻原の得意とするところ。それを前衛的手法ではなく、リーダブルな物語世界に溶け込ますのが粋なのである。『円朝芝居噺 夫婦幽霊』がそうだったし、話題作『許されざる者』は一回りスケールを大きくしたロマンだった。
新作『抱擁』も、二・二六事件と駒場の前田侯爵邸という現実にゴシックロマンスを重ねたような中編で、濃密な小説世界を形づくりながらあっというまに読める。手法もテーマも手詰まりを感じさせる現代文学にあって、稀な存在といっていい。
今でも東京・駒場の日本近代文学館が敷地内にある駒場公園へ行くと、ここが前田侯爵邸敷地跡であり、昭和初期に建てられた和館と洋館ともに保存(一部公開)されている。『抱擁』は、昭和十二年の同邸が舞台になっているので、ヒマのある方は、ぜひ本書を抱えて現地で読んでほしい。臨場感がまるで違ってくるだろう。公園に隣接する日本民藝館もおすすめ。
さて『抱擁』だが、十八の「わたし」が、前田侯爵邸に小間使いとして奉公するところから始まる。前田家はもと加賀百万石の殿様で、当主利為は侯爵、貴族院議員、陸軍中将と、神奈川県茅ケ崎の町役場助役の娘「わたし」にとって「雲の上のかた」であった。
帝都電鉄「駒場」駅からほど近い前田様のお屋敷は、うっそうとした森のなかに明るい庭が広がり、その中に西洋の城のような邸宅が現れる。敷地内にはこのほか、厩舎と馬場、園芸場、農園、ガレージ、浄水場、使用人宿舎などがあり、「駒場コート」と呼ばれていた。
「わたし」は、前田家の下の娘・緑子(五歳)の小間使いとして雇われたのだ。ところが、この緑子が不思議な力を持ち、しばしば見えるはずのない誰かの姿をじっと見るのだった。果たして亡霊か、それとも超能力か。これは誰でも気づくとおり、十九世紀末のゴシックロマンス『ねじの回転』を想起させる。洋館に現れる亡霊、幼い子どもと若い女家庭教師を「意識の流れ」で書いたヘンリー・ジェイムズの傑作である。
辻原は、たぶん同じ土を使いながら、焼き方も上薬のかけ方も変えて、まったく別の作品に仕立て上げた。「わたし」の前に仕えた「ゆきの」という存在が明らかになるが、彼女の夫は前年二月二十六日に、皇道派の青年将校たちが「昭和維新」を目指して企てたクーデター、のちに言う「二・二六事件」の一員だった。庶民にとっては夢のような「駒場コート」の世界と、日本ファシズムの一里塚となった厳しい現実。暖流と寒流がぶつかるところに、豊かな漁場が発生するというが、辻原は文学でその手を使う。
平穏なお昼前のひととき、「わたし」が母の誕生日に贈るテーブルクロスを刺繍しているシーン。
「仕上げですから、しっかり針を動かし糸を引きます。針が窓からの斜光を反射して、蝶のようにひらりひらり翔び交います。時々、詰めていた息をふっと吐き出して、窓の外に目をやり、室内をさっと見回し、緑子にもちらりちらりと目を配ります。緑子は、お人形を抱いて椅子にすわり、足をぶらぶらさせています。でも、先ほどまでとは少しようすが違います」
緑子はそこにいないはずの誰かに人形をみせて笑いかけ、「わたし」もまた、誰かがいると感じる。
邸の外は、暗い戦争に傾斜していく剣呑な時代。しかし城壁のようにその空気を遮断した「駒場コート」では、別の空気、別の時間が流れている。怪談めいた話なのに、あんまり怖くなくて、見えない誰かに親しみさえ覚えてしまう。
最後、緑子との別れで、抱きついて来たこの不思議な少女が「わたし」の耳元でささやくセリフは、謎解きというより、イノセントな魂のぶつかり合いが生んだ祝福の言葉のように思えてくるのだ。