広告制作者は戦争とどう関わってきたのか。質の高い国家情宣キャンペーンをつくることで、結果的に多くの人を戦場に向かわせ、死なせた広告制作者たちに良心の呵責はなかったのか。仮にこれから戦争が起きたら、広告制作者はやはり心の痛みもなく、戦争プロパガンダに参画するのだろうか。
コピーライターでありながら、僕は戦争中の広告宣伝活動についてほとんど知らない。同じ団塊世代の馬場マコトが上梓した「戦争と広告」(白水社)。この難攻不落のテーマをノンフィクションで見事に活写してくれた。「時代と並走する」広告表現者の本質をこれほどまでに剔抉(てっけつ)した本はないだろう。僕と馬場マコトは同じ広告代理店で仕事をしたことがあり、畏友である。彼は「ストップ・エイズキャンペーン」を打ち上げた輝かしい実績をもったクリエイティブ・ディレクターで、かつて小説「銀座広告社第一制作室」などを出版している作家としての顔も併せ持つ。まずは、おそるべき根気で広告人のキアロスクーロ(明暗)を浮かび上がらせた力作に敬意を表したい。
今日にいたる広告業界の繁栄は、ひとえに先達たちの礎の上で築かれてきた。しかし、広告人は過去にはほとんど興味がなく、いま起こっていることとこれから起こるだろうことを表現する楽しさに夢中なのである。戦前でも同じような人種が広告に取り憑かれていた。舞台は森永製菓宣伝部にコピーライターとして在籍していた新井静一郎や資生堂宣伝部の山名文夫ら23人の精鋭たちが、立ち上げた「報道技術研究会」である。山名文夫が委員長を引き受けて、広告人による国家情宣活動が始動する。
徐々に世情がきな臭くなり、一般広告の仕事が激減していた頃である。そこで内閣情報局や大政翼賛会をクライアントにして戦意高揚、国威発揚の制作物を「報研」は次々に受注し、優れた戦争美化キャンペーンをつくりつづけていく。戦争を論理付け、国家戦略をわかりやすいポスターや展示物などにしていった。なかでも山名文夫は資生堂の唐草模様をデザイン的に完成させ、女性美をイラスト化した作品群をつくってきており、そのアートディレクションは現在でも十分通用するものだった。とりわけ彼がつくった「おねがいです。隊長殿、あの旗を射たせて下さいッ!」のポスターは戦時中最もインパクトのある広告になり、当然多くの人心を揺さぶった。また、大東亜共栄圏構想を認知理解させるために「報研」のメンバーがチームでつくった「太平洋報道展」は、日本最高峰の表現技術レベルだった。彼らの果敢なる広告魂が、日本のプロパガンダを実質的に支えたのである。
終戦後、山名文夫はふたたび資生堂に入り、宣伝文化部制作室長として女性を描きつづけ、多摩美術大の教授にもなった。死後、優秀なクリエイターに贈られる「日本宣伝賞山名賞」に名を残した。新井静一郎は、電通に入り、常務取締役まで登りつめた。
彼らは果たして戦争に加担したと後悔したのだろうか。そこを馬場マコトは丹念に追っている。広告技術者である山名や新井は「戦争犯罪を犯した意識がまったくなく」、「新しい表現によって人を死なせてしまった後悔よりも自分の広告技術が高みに到達できたことへの満足感を感じている」と馬場マコトは結論づけた。
広告は制作者の匿名性が保たれているので、彼らの戦争責任はバッシングされることもなかった。「いかに新しい広告表現方法で市場を開発するか、オリジナルアイデアが創出できるかにいつもこだわる広告人の価値観」こそが職業規範であり、もたらす結果にはほとんど無頓着なのが、広告人の資質であると馬場マコトはいう。こうした広告人の資質に「だから広告という職業はダメなのだといわれれば、なんの反論もできないのだが」と前置きしながら、「広告の本質は新しい表現の価値観を創造すること」がすべてであり、時代が変わっても広告制作者の思いは変わらないだろうと書いている。
そしてあとがきで「時代の子」を名のる馬場マコトは、「自分もその時代にいればなんのためらいもなく国家情宣の仕事を受け、山名文夫や新井静一郎よりも優れたコピーをつくるだろう」と断言する。だが、馬場マコトの初心は違っていた。「行政広報、自衛隊、原子力などの国家情宣の仕事と被害者を生み出す職種の仕事をことごとく断ってきた」のに、厚生省によるエイズ防止の国家的キャンペーンや借金地獄を生みだしたサラ金などの広告をしてきて、自らの禁を破ったことを告白している。
広告制作者は、商社と同じく「ラーメンからミサイル」までさまざまな商品や企業の広告表現に挑むことで、表現の熟達者になれることを本能的に知っている。あらゆる毒を貪婪(どんらん)に飲み込むことが、広告業界の掟であるのだ。あれはイヤ、これはイヤでは、広告業界にいる意味はない。一方、クライアントを獲得するためには激しい競合を繰り返し、市場原理に沿って先鋭的な表現をしていくなかで良心が摩耗していく。
企業が反社会的行為をしたり、情報を捏造したりすれば、必ずメディアや消費者からバッシング受ける。広告とは別次元なのだ。ひたすら与えられた課題のために戦略をつくり、アイデアを考え、広告にして発信することが僕にとっても職業上の宿業だった。
戦争を起こさなければ、戦争コピーを書かなくてすむ。馬場マコトは戦争は嫌だと言い切っている。広告表現者の良心は時代潮流の上に浮く病葉(わくらば)ほどの軽さではあるが、それゆえにたまには俯瞰し、沈潜もできる立場にあるのだ。
馬場マコトは矛盾に満ちた広告人の業を描いてくれた。「広告屋」と言って一抹の侮蔑をもって見ている人たちに鏃(やじり)を投げつけた書である。「死の商人」といわれる武器製造企業グループの広告活動にも手を染めた極悪人の僕は、この本で救われた。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや広告人をや」である。
2010年10年22日 柿本照己