旅の本、だと思った。著者の片桐はいりさんはこの本で、2010年に生きている読者の暮らしのちょっと横、あるいは昔のほうへカメラを移動させ、そこに映った景色を見せてくれる。そこでは便利よりも不便が、日常よりも祝祭がいくらか勝っているようだ。いまは失われたもの、失われつつあるもの、でも、一工夫すればもしかして再現可能で、だからノスタルジーばかりで話が終わらないもの、そうした事柄の一つひとつを慈しむように見つめている。日々の中にはなかなか見つけにくいものだから、見つけるためにはどうしたって旅に出ることになる。空間を移動し、時間を遡り、時に時間移動と空間移動がピッタリ重なりもして、そして行く先はいつだって映画館だ。
映画雑誌「キネマ旬報」の連載に加筆・改題をして単行本化した『もぎりよ今夜も有難う』は、俳優として世に出る前に、著者が銀座文化(現在のシネスイッチ銀座)でもぎりのアルバイトをしていた頃の記憶を綴った本である。1980年代がスッポリその中に収まる7年間のメモワールだが、二十数年前のこととはいえ、映画館という場所がいかに今とは違っていたかが如実に理解できる。シネマコンプレックスはもちろん存在せず、座席指定も指定席以外にはなく、その代わり入れ替えなしで二本立てがバンバン観られたし、途中入場や場内での飲食にも寛容だった。片桐さんとそのバイト仲間たちは、休憩時間に館内に忍び込み、座席でお弁当を食べたり、中には睡眠をとったりしていたツワモノもいたようだ。むろん、観客に迷惑が及ばないよう、じゅうぶん配慮したうえでの所業だろうが、いかにもおおらかで、今ではとうてい考えられない気安さに溢れている。
みずからの出自を問われたら、「映画館の出身です!」と胸張ってこたえたい。俳優としての経歴ならば、「大学時代から小劇場の舞台に立ちまして、その後CMに誘われて、ほどなく映画にも顔を出し……」などというのが筋かもしれない。でも心の底では、わたしは演劇でも映画でもなく、映画館の出身なのだ、とかたくなに思っている。
冒頭からこう宣言されているとおり、著者の映画館に対する思い入れはあまりにも深い。映画館の側にも、いわば人を「輩出」するだけの「厚み」のようなものがあったのも事実だと思う。行政でいえばとかく悪い意味でしか使われない「ハコモノ」という言葉も、こと映画館となれば、「ハコ」の一語には矜持や秘密がこめられる。最新のシネマコンプレックスなら、椅子やスクリーンの品質、音響の良さであったりということになるのだろうが、昔日の映画館ではむしろ、「ハコ」の破れ目だったり(銀座文化の暖房は石炭によるものだった! 二十数年前とはいえ、バブル前夜の銀座のド真ん中の話である)、あるいはそこに出たり入ったりする人々の記憶(売店の最長老の「吉村さん」のところに、「おねえさんいるかい?」と、映画を観に来た渥美清がよく訪ねてきたという)だったりするのである。
そして片桐さんの注意深い目と耳は、そんな映画館が文字どおり生物として蠢いている様子をまるで昨日の出来事のように描写してみせる。
やっとのことで本編が始まり、入れ替え中コーラの栓を抜きまくった売店のおばちゃんたちとひと息いれていると、劇場からあの音が聞こえてくる。
どーん。ずーん。どよよよよ。
地響きのようなくぐもった音。劇場の鼓動? いや黒山のお客さんの笑い声である。このどよめきが度を越すと、爆風となって映画館の重い扉を押し開けた。人いきれで沸騰した場内に笑いが起こるたび、扉がばふん、ばふんと開いては閉じる。
お客さんで満員の映画館というのは格別なものだ。自分は東京・池袋の全映画館が加盟する「池袋シネマ振興会」発行のフリーペーパー「buku」の編集人をやっているが、大入り満員時の映画館スタッフやもぎりたちは、うれしさに顔を上気させているか、キャパをオーバーした客さばきに疲労困憊してゲッソリしているか、およそ二つに一つである。フィルムが発する重厚なドルビーサウンドではなく、隅々まで埋まった客席からドッと沸き起こる歓声を、上映が始まって「やれやれ」顔の支配人やもぎり嬢たちと扉の外側で聴いていると、(日常業務の苦労は棚上げにして)映画館っていい職場だよなあ、とつくづく感じ入ることもある。
「ほんの3、4回のつもりではじめた思い出話が2年も」と「あとがき」にあるように、片桐さんは当初、長い連載はまったく考えていなかったようだ。まして本になるなど、思いもしなかっただろう。「ほんとにそうなんだろうな」と読者として頷けるのは、この本の後半は、片桐さんが東京を離れ、日本全国のさまざまな映画館を訪ねて歩く方向へと、自然に舵を切っていくからである。銀座文化という定点で思い出(時間)旅行をしてきた筆が、その勢いのままに銀座を飛び出して、空間の旅に拡大していく。日本最南端の映画館がある沖縄の石垣島。いまだにストーブが現役の豊岡劇場(兵庫県)。舞鶴、深谷、酒田、岩井、長野、静岡と歩きに歩いて、生まれ育った町・大森のすぐお隣のテアトル蒲田や蒲田宝塚にまた戻ってくるその旅……。
理屈をこねれば、「いま、ここ」に無いものを、意識的であれ、無意識にであれ、探して歩くことが旅である。けれど、時間と空間が掛け算になって旅の体積が大きくなると、そこにポッと浮かび上がるのは逆に、旅するその人の「いま、ここ」なのではないか。
『もぎりよ今夜も有難う』の中で自分が最もグッと来る場面を引いてみる。旅といってもこれは銀座からさほど遠くない、同じ東京都内の町田を歩いている時の話である。「みたらしだんごをほおぼって」いたら、「雷鳴」のような「大爆音」を聴き、「そうか。町田は厚木と横田の基地にはさまれた町だったのか。機影が見えないから、空全体が化け物の吠え声でおおわれているような恐ろしさだ。」と気づいた著者に、その直後、突然襲ってきたある感情。
人ごみに立ちすくみながら、なぜだろう、そんな時、だしぬけにアラガキさんのことを思い出したのだ。
アラガキさんは銀座文化でただひとり、年のいったもぎりだった。(中略)わたしはアラガキさんがうとましかった。同世代の仲間ならきく融通が、鈍重無口なこのおばさんには通じない。もちろん肝心の映画の話も通じない。控え室にアラガキさんが入ってくると、若者たちはなんとなく口が重くなった。そのうちアラガキさんは休憩時間は場内にこもり、だんだん控え室には現れなくなった。やがて着替えもトイレですますようになり、しばらくすると職場にも来なくなった。
(中略)
ひとつ思い出したら、立て続けに小さなかけらもついてきた。休憩時間にもぎり仲間に配ってあまった100円ケーキを、わたしは一度、気まぐれにアラガキさんにまわしてみたことがあった。アラガキさんは「あらまあ!」とすっとんきょうな声を出し、沖縄出身を絵に描いたようなつくりの大きな濃い顔でぎこちなく笑ったのだ。その1回きりの笑顔を思い出したら、涙が出た。
泣ける、というのは正しくこういうことを言うのだろうと思う。そうでなければ嘘だ。人間のいちばんやわらかな部分、鍛え上げようにも鍛えようのない、ぐにゃんぐにゃんの部位が、不意打ちをくらって悲鳴をあげている感じ。思い出のテロルである。修飾語がまた、残酷なまでに的確! なにしろ「あまった100円ケーキ」で、「まわしてみた」って実験じゃないんだし、「すっとんきょう」の悲しさ、「沖縄出身を絵に描いたようなつくりの大きな濃い顔」も悲しいし、「ぎこちなく笑」い、その笑いが「1回きりの笑顔」だというのだから、もうなにもかもが悲しい。
『もぎりよ今夜も有難う』を読むことは、飛行機(自衛隊機だろう)の爆音が引き金になってアラガキさんを思い出す、そんなやさしくも悲しいテロルを出来事として受け取ることと同じだという気がする。「爆音」と「アラガキさん」の因果関係を解析するのは難しそうだが、けれどなんだろう、銀座文化という映画館の思い出の旅から始まって、町歩きの大好きな片桐さんの、「この国にはまだどんな小さな町にも必ず、映画館とそれをめぐる記憶がうもれている」と考えるその信頼が、アラガキさんを思い出した時の「涙」を経由して、読み進めるほどに、日本の各地の古い映画館とそこに宿った温かな闇と溶け合い、著者に対する「信頼」となり、なにやら同伴して歩いているような気持ちになっている。気持ちのどこかで実は町田の事件に得心している。そんな感じなのだ。
アラガキさんは「新垣」さんか、「荒垣」さんか。カタカナで書かれる「アラガキさん」の生々しさにおののきながら、しかしなぜ、自分もこうして書評というものを書いてみながら、こうまでアラガキさんに侵入されなければならないのだろう。しかしそれがたぶん、本を読むという経験の爪あとなのだ。
いつか片桐はいりさんに、池袋でもぎっていただきたい、と思う。
そしてアラガキさん(赤の他人だが……)、元気かなあ、などといま、考えている。