絵つきのコラムだからエコラム。
潔く何も表現していない本の題名である。エコラム。
橋本治に『デビッド100コラム』(河出文庫)という著作があるが、それに匹敵する。
わかりにくいと思うけど、これは俳優デヴィッド・マッカラム(『0011 ナポレオン・ソロ』でイリヤ・クリヤキンを演じたことで有名)に引っかけたシャレだ。もちろん内容と題名はまったく関係がない。ダジャレかよ。
それと同じぐらい無意味がなく、そして素敵な題名だ。
エコラム。ちょっとギャングスタっぽい。嘘。
ここに収録されている108個の文章は、雑誌「POPEYE」1999年10月25日号から2004年12月25日号まで連載された「SERCHE & DESTROY Lily Frankyの土足御免」を加筆訂正のうえ再構成したものだ。
1980年代に始まって、2000年代のはじめくらいになんとなく終焉したものに、コラムニストのブームがある。
猫も杓子もコラムニスト。
私は1980年代の後半に大学生活を過ごしていた。文学部だったので、周囲には「将来はコラムニストになる」と豪語するやつがいっぱいいた。回顧番組で必ず流される、バブル期のイコンは「ジュリアナ東京」だが、私にとっての80年代の象徴は「コラムニストになりたいやつ」だった。そういえば、あのころに生れたものは文字通りほとんどが泡となって消えたが、若い子が外で地べたに直座りする風習だけは廃れずに残った。あれは確か「尻を地面につけずに座っていると、ヤンキーのウンコ座りみたいだから」という理由で広まったはずだ。大学図書館前に鈴なりになって座っていた、将来のコラムニスト予備軍たち。
付き合いがなくなったから、その後どうなったのか、まったく知らない。
試しにWikipedeiaで「コラムニスト」を検索してもらうと、現在活躍中の書き手の名前がずらりと並ぶ(絶賛休筆中のリリー・フランキーの名前もある)が、そこに名前がある書き手の「コラム」と、コラムニスト・ブームの「コラム」は微妙にニュアンスが違う。小田嶋隆や中野翠、泉麻人の「コラム」は英米で使われている語義に近い文章で、取材に基づいて自身の意見を発表するものだ。1980年代的「コラム」のニュアンスは、「エッセイ」に近いものだったように思う。日々の出来事や、なんとなく考えたことを書く小文。端的に言うと、自分の切り売りだ。
私が思うに、コラムニストのブームが終焉した理由は二つあって、一つは雑誌文化が衰退して商業媒体が減少したこと、もう一つはインターネットが普及して文章の素人でも自分の切り売りが可能になったことだろう。
自分の切り売りをするのはたいへんに難しく、ネタが尽きるとたいへんに厳しい状況になる。コラムニストは、だいたいそれでしぼんで、消えていくのである。コラムニストは地味に生存競争の激しい分野で、「あのころ」の花形で、今はほとんど名前を聞かなくなった書き手というのはたくさんいる。たくさんいるのだが、おそらくこの文章をお読みになっている方のほとんどは「消えていったコラムニスト」の名前を五人も挙げられないはずだ。いてもいなくてもかまわない、うたかたのジャンルだったことの証左だ(つまり、バブルだったのよ)。
そうした中でリリー・フランキーは、ライターとして最も消耗が少なく、不思議な形で生き残った。最後のコラムニスト、の称号を与えてもいいのではないかと思う。今は書いてないんだけど。彼が武蔵野美術大学出身のイラストレーターで、文章書きのみに才能をつぎこむ必然性が薄かったため、というのが最大の理由だとは思うが、文章から立ち上ってくる雰囲気にもう一つの理由を求めることもできる。
基本的に、無責任なのである(ここに『いい意味でも悪い意味でも』とつけると、いかにも1980年代風な責任放棄の感じが出る、いい意味でも悪い意味でも)。
リリー・フランキーの名前を聞いて私が真っ先に思い出すのは、雑誌「CLEA」における故・ナンシー関との対談連載で、あの中で常に彼は、遅刻したり、しょうもないことを言ったりしてナンシー関にたしなめられる役だった。連載をまとめた本『リリー&ナンシーの小さなスナック』(文春文庫)巻末のナンシー関追悼文(感動的なものだ)の後に置かれているイラストでは、ナンシー関が微苦笑しながらリリー・フランキーに「しょーがないねえこの人は」と言うところが描かれている。
自分の「しょーがない」ところをリリー・フランキーは『東京タワー ボクとオカンと、時々、オトン』(新潮文庫)で率直に書いたのだが、それはなぜか「感動の親孝行小説」としてベストセラーになってしまった。きちんと読んでみると、小説の中でリリー・フランキーはわがまま放題に生きており、オカンにも九割方は迷惑をかけているだけだ。あの小説の親子関係が素直に感動を呼ぶのは、母親が息子に対して惜しみなく愛情を与える姿が描かれているからで、つまりは究極の甘やかし小説なのである。
みんなが「しょーがないねえこの人は」と言い、不思議に甘やかしてきた。だからリリー・フランキーは疲弊をしなかったのだろうと、私は思う。
『エコラム』に収録された文章は、そういう人が書き散らしてきた、わがまま放題な言葉である。言うまでもなく無責任で、したがっておもしろい。
あとがきで著者は「量だけは多い定食屋のように、せめてボリュームだけは多くしておきました。トイレで読めば、半年は持つと思います」と書いている。東海林さだおは自分の文章を「雑文」と規定し、トイレに駆け込むときに「うー、なんかないか、なんか」と引っつかんでいくのに向いていると書いた。また、故・中島梓が良い雑文の条件として挙げた、何べん読んでもすぐに忘れて読み返せる、という利点にもぴたりとはまっている。その通りで、トイレの棚などに置いて、用を足すときにぱらぱらめくるのが最も適した読み方なのである。半分はチンコとウンコの話だしな!
素晴らしい題名と同様、空疎ではないが無意味な本なので、内容についてあれこれ書くのは野暮だと思う。お断りしておくのは、無意味であるがゆえに、この108の文章の中には一片の欺瞞も含まれていないということだ。これは大事である。物書き流の言い方に直すと、自分のものになっていない言葉で書かれた文章は一つもない、ということだ。
この本を読みながら、家から少し離れた場所にある定食屋に初めて入ってみた。そこはやたらと副菜を多く出す店で、お新香と冷奴を小鉢で提供するほかに、マカロニサラダを取り放題にしてくれるのであった。そのマカロニサラダをつつきながら読んだ。
ちょうどページを開いた「常識の奴隷」というコラムでリリー・フランキーは、カニを食べると無口になるというのは嘘で、オレの身の回りにはカニが一番の大好物だという奴はいない、無口になるはずなんてない、と主張していた。
それはアンタがそれほどカニを好きじゃないからだろう、私は世の中の食い物でカニが一番好きだ、と思いながら私は読んでいたのだが、リリー・フランキーはこう書く。
――「冬はやっぱり鍋だよねえ」とか、「カニを食べると無口になるよねえ」などと平気で口にする人は、言葉に心がなく、信用がおけないイメージの人なのである。
このように、人は時々、自分の心の言葉ではない、他人に植え付けられた概念の言葉を口にすることがある。そして、鍋やカニにおける湯気の団欒は、そういった適当な会話が飛び交う場所でもあるのだ。
そのとき定食屋のテレビでは、ワイドショーが前日に神宮球場で行われていた東京六大学野球の最終戦のことを流していた。ワイドショーだから試合の内容うんぬんではない。ドラフトでどこかの球団に指名された早稲田大学の斉藤投手が、大学時代最後の試合で登板することを受けた、結構ミーハーなものだった。野球に関心がない私は、その番組を半ば無視していたのだが、耳にこんな言葉が飛び込んできたのである。
「やっぱり、ハンカチ王子が最後の試合ですからぁ、絶対見とかなきゃと思ってぇ」
画面を見ると、レポーターにマイクをつきつけられ、うっそあたし? あたしに聞いてるの? うっひょー! という顔でコメントをしていたのは、人生の半ばを過ぎて捨てる恥も外聞もなくなったミドルエイジではなく、早稲田の学生だった。
その若さで、恥ずかしげもなくハンカチ王子とか言うかお前は。
そうか、そういうことなんですねリリーさん。
そう思いながら私は、再び『エコラム』に視線を落とした。友人にもらった毛ガニを車の中に忘れ、腐らせてしまったことがあるリリー・フランキーは、その体験から、カニの臭いはチンポの臭いに酷似している、だからカニは……と主張していた。
いやいやいや。
それはあなたがだらしないだけですから。