昨年の一時期、表参道のスパイラルカフェには17時からの限定メニュー「文庫本セット」があった。文庫本+飲み物で1350円(途中から1200円に値下げ)。白いケーキ皿にクラフトブラウンの紙ナプキン、その上にタイトル入りのクラフト紙カバーが掛かった文庫本が盛りつけられているというデザインフェチな演出だった。文庫本は毎月変わる5冊から選べ、テーブルの上に置かれたメニューでイントロ部分が「試食」でき、注文後の「食べ残し」はもちろんお持ち帰り。私はここで、菊池成孔の『スペインの宇宙食』やカルヴィーノの『見えない都市』を食べた。
この「イントロ試食」の楽しさが忘れられず、今回、『文学2010』に収録された18の短編のタイトル+イントロ試食を勝手な形でやってみたいと思います。作家名は最後にまとめました。さあ、あなたはどれが食べたい?
1『考速』
草稿はここで途切れている。目覚めてもまだ佐倉の声が聞こえるのだった。あらかじめ紙に記された文字を棒読むように表情を欠いた低音が、昨晩の佐倉と自分の位置関係を保ったままに聞こえるのである。だからここではまだ目を開かない。
2『生死刻々』
自覚症状は全くなかったのだが、今年の毎年定例の検診で以前の検診の折に偶然見つかった右胸の小さな影が昨年には変化なかったのに今年になって二年前の検査の二倍ほど、一センチ五ミリくらいに広がっているのを確かめ医師は肺の癌と診断した。
3『その部屋』
<西宮はいかがです? もう落ちつかれました? 皆さん、お元気?> F子は電話に出た従兄の妻の安子にそんなことを挨拶代りに言ったが、碌に相手の言葉を待たずに、<ちょっと伺いたいことがありまして……> と早速に言った。
4『おと・どけ・もの』
「あとりえぽとれ」というところから月曜日に電話があり、「それでは水曜日の午後二時頃におうかがいします」と言われ、火曜日が過ぎると水曜日が来て、二時になると一人の女性がわたしの目の前に立っていて、「わたしがカメラマンです」。
5『虫王』
趙参将は戸口にもたれ、雨に濡れている草茫々の地面をながめている。細い絹糸のような雨がやや西からの微風を受けて左にかしぎながら降る中を、一匹のシオカラトンボが飛んでいる。参将の視線はその動きにどこまでもついてゆこうとする。
6『不浄道』
私は理想の男を持っています。彼の名は知りませんが、ずっと観察を続けています。私は彼を密かにウィルスンと呼んでいます。ウィルスンは五十歳ぐらいでしょうか。西榊川の河原の掘っ立て小屋に住んでいます。それが彼のホームです。
7『戒名』
祖母みつこは、もう自分の戒名を決めてしまっていた。戒名というのは生前に決められるものなのだろうか。そもそも戒名は自分で決められるものなのだろうか。私は尋ねた。
8『ブルーシート』
帰り道、夕焼けで二人の影が伸びて、高架の下をくぐってもホセ=イガラシは「こ、殺してやるッ、ぜ、ぜったいに、こ、殺してやるッ」と思いつめたように呟いていて、熾火のようだった街の灯は、いよいよ目の前に迫って、影絵の街へと代わりつつあった。
9『ナイトウ代理』
平成十九年度新卒入社で経理部経理課に配属されたオノヒロミ二十四歳は入社当初から、証券代行部二課の内藤課長代理三十五歳に目をつけていました。
10『絵画』
川は崖のように急な斜面を切り取った、坂道を降りた、そのいちばん奥底を流れていた。葉桜が濃い影をつくる遊歩道にはここ、あそこ、その先、もうひとつ先と、途切れながらツツジの植え込みが続き、花の朱色と枝葉の黄緑色のまだら模様のあいだに埋まるようにして小さな木製のベンチが置かれている。
11『アーノルド』
「すいません、すいません」「てめえ、ふざけんじゃねえよ、オイッ!」きけばこうである。甲くんはいそいでいた。リクルートスーツのポケットから切符をとりだしながら、小走りで改札機にむかった。
12『白い紙』
見張り役の八十過ぎのおじいさんが門の横、いつもの鉄パイプの椅子で居眠りをしている。胸にくっついている真っ白いヒゲの周囲を一匹の蜂がウロウロしている。着陸に最適なポイントがなかなか見つからないようだ。
13『トカトントンコントロール』
利口な癖に。つまりトカトントンはそれに近いもので、僕は自分を利口とは思っていないが、あとに続く『癖に』に関しては、ぴったり当て嵌まっているのを自覚している。嬉しい癖に。悲しい癖に。笑っている癖に。怒っている癖に。
14『行きゆきて玄界灘』
もう十年ほど前のことになるが、対馬を訪れた私は真っ先に北端部にある「韓国展望所」なる場所を訪れた。そこからほんの五十キロほど先が韓国で、天気の良い日には釜山の街並も見えるというからである。
15『街を食べる』
ランチをとるために外へ向かった私に反応してオフィスビルの自動ドアが開いた瞬間、生ぬるい空気が押し寄せてきた。まだ春先なのに夏のような蒸した熱気に包まれ、ふと、脳裏に子供の頃の夏休みの情景が浮かんだ。
16『みのる、一日』
役場支所は地区公民館の建物のなかにある。みのるはそこにいた。みのるは臨時職員としてこの支所に職を得た。役場の臨時職員。もちろん誰かの口利きである。みのるには父はなかった。だから母にちがいなかった。
17『高くて遠い街』
私には、母の故郷はその街の名の通り、高く、そして遠くに離れた街だ。自分がひとりで訪ねていくだろうなんて考えたことなかったし、母と一緒に出かけようという気も用事もなかった。
18『草屈』
これでいい。いや、これがいいと思った。肉球から覗いた虎の爪の断面。あるいは猛禽類の爪。円盤の縁に鋭い刃が残酷なほど並び、さらにその一つ一つの先に、より鋭利なバナジウム鋼の巴形の爪が苛立たしげにくっついている。
(作家名)
1円城塔 2石原慎太郎 3河野多惠子 4多和田葉子 5辻原登 6吉村萬壱
7長嶋有8浅尾大輔 9墨谷渉 10磯﨑憲一郎 11松波太郎 12シリン・ネザマフィ
13佐藤友哉14夫馬基彦 15村田沙耶香 16小野正嗣 17いしいしんじ 18藤沢周
ちなみに個人的な「本日のおすすめベスト3皿」は、6と8と15。いずれも、現代人の憧れでもあるワイルドな生き方にアプローチしたタイムリーな短編だ。名付けてワイルド3部作。いずれもかなりエグミがあるので、爽やかな飲み物と一緒にお楽しみください。
4と10は、あまりに美味なので、本日は売り切れたということにしておこう。
6『不浄道』 by吉村萬壱
潔癖と不浄を行き来する会社員の「私」の異常な性癖は、母親とのゆがんだ関係に由来する。うんざりするような日常と対比されるホームレス男、ウィルスンの神々しさといったら!「私」はとうとう彼と一つベッドで眠ることに成功するが、その後の悲劇的な展開はガールズトークのような痛快さ。あるものを理想化し、やがて幻滅し、反動で別のタイプを好きになる。これ、女の典型的な生き方だ。
8『ブルーシート』by浅尾大輔
若年派遣労働者のリアルライフ。理屈っぽい部分が残念なほど、細部の描写が素晴らしい。とりわけヒロシが病んだ母と暮らす文化住宅でホウレンソウを茹で、味噌汁をつくり、ご飯パックを温めるシーンは秀逸。「母さんが食べられないのなら、ゆう子でもいいし、ホセでもいいんだ。向かいに座って真っ直ぐに見つめてくれるのなら誰でもいいのだ」と気づいた瞬間に涙が溢れるが、彼はそれを拭うこともせず味噌汁の味見をする。
15『街を食べる』by村田沙耶香
田舎で過ごした夏休みの記憶がきっかけで「健全な暮らし」に目覚めるOLの「私」。「森で暮らす人が森を食べるように、街で暮らす人は街を食べて生きていくのが自然なことなのだ」と考える「私」は、公園や駐車場で雑草を摘み、料理してお弁当に持っていくようになる。ぞっとするような話だが、もっと病的な現象が周囲に満ちあふれていることを私たちは知っている。ただ、距離を置いたり見ないふりをしているだけなのだ。