二〇〇六年に東京国立博物館で開催されていたプライスコレクション「若冲と江戸絵画」展で「鶴図屏風」を目にしたときの驚きは忘れることが出来ない。大胆に省略された迷いのない線で描かれた鶴たちは生きていて、くつろいだ風情で屏風のなかに羽根を休めていた。
今年で生誕一五〇周年を迎えたアントン・チェーホフ(一八六〇-一九〇四)がそっけない言葉で人物の性格や感情を浮き彫りにするさまは、走り描きの鶴が今にも飛び立ってしまいそうな若冲の名人芸を彷彿させる。たとえば『馬のような名字』所収の短編のひとつ「ロスチャイルドのバイオリン」は、次のように始まる。
「その田舎町はちっぽけで、村に比べても見劣りがした。しかも、そこに住んでいるのはほとんど年寄りばかりで、これがまた滅多に死なず、腹立たしくなるくらいだ。」(百十一頁)
主人公である吝嗇な棺桶作りの老人ヤコフの、いかにも不機嫌なようすが浮かび上がってこないだろうか。たった一人の身寄りであった妻が死ねば絶妙のタイミングで棺桶を作り、無駄な出費もなく葬式を終えて安堵すると、ヤコフはこれまで妻に優しい言葉ひとつかけてやらなかったことに気がつく。過ぎ去った日々に思いを馳せれば人生で被った無数の損失がくやしくて眠れなくなり、自分の死も遠くないことを知れば人生の空しさに打ちのめされる。
「それから家に帰る道みち、ヤコフは、死んでしまえばいいことばかりだということに思い至った。飲み食いする必要もなければ、税金を払う必要も他人の機嫌をそこねることもない。それに、墓に眠っているのは一年や二年ではなく、百年にも千年にもなるのだから、ざっと計算しても、その利益たるや莫大だ。生きていると損ばかりだが、死ねばいいことずくめなのだ。たしかに、それはそうだが、でもやはり、そう考えると腹が立つし、つらい。どうしてこの世の中では、たった一度きりしか与えられない人生が益もなく終わってしまう、そんな奇妙な仕組みになっているのだろう?」(一二六—一二七頁)
こうした空虚を知ってしまった人間はもう後戻りはできない。それはしがない棺桶職人のヤコフだけでなく、その名も「恐怖」と題された短編で、恋い焦がれていたはずの人妻が自分を愛していたことを知っても幸福に酔えなかった男や、「退屈な話」(岩波文庫所収)で「自分の名声にいっぱい喰わされたような気」がしている医学界の重鎮にも共通している。市井に生きる人々の暮らしを優しく見守り、ユーモラスで端正な作品を残したと評されるチェーホフが覗かせる深淵は、浦雅春『チェーホフ』(岩波新書、二〇〇四年)に深く論じられている。ただし、そうしたチェーホフの言うところの「魂の無力」が単なるペシミズムではないことは、浦氏が引用するナボコフの言からも明らかだ。
「チェーホフの本は、ユーモラスな人びとにとっては悲しい本である。すなわち、ユーモアの感覚をそなえた読者だけが、その悲しさを本当に味わうことができる。(中略)この作家にとって物事は滑稽であると同時に悲しいのだが、滑稽さが分からない人には悲しさも分からない。両者は繋がっているのだから。」(一五〇頁)
医者の仕事に打ち込む傍らで、次々と雑誌に短編・掌編を発表していったチェーホフが、四四年の生涯で生み出した作品は千篇にも上るという。短編集『馬のような名字』一冊をとっても、職を失い物乞いになる決意をしたものの通行人に声をかけることができない父と腹を空かせた息子を描く「かき」、孤独に苦しむ大工場の跡取り娘と医者が出会う「ある往診での出来事」、堅物のギリシア語教師を結婚させようと田舎町の人々が奔走する「箱に入った男」など、じつに多様な人々が登場する。チェーホフの世界では、生きることの厳しさに打ちのめされるのは貧しい人々だけではなく、人生の空しさに思いを馳せることは有閑階級の特権ではない。あらゆる人間の生に通底する哀しみと表裏一体になった可笑しさを、簡潔な言葉で浮かび上がらせる余裕の筆致には、誰もが気軽に読むことができる明快さと、汲み尽くすことのできない深さが共存している。
ここで紹介した『馬のような名字』や岩波文庫の短編集に加え、最近では沼野充義氏による『新訳・チェーホフ短編集』が集英社から刊行された。また、新潮文庫の『チェーホフ・ユモレスカ』(松下裕訳)には、数分でさらりと読めて忘れがたい余韻が残る掌編が並んでいるので、小説を読む暇などないという人にも手に取ってみてほしい。