もう1ヶ月以上、ずっと鞄に入れて持ち歩いている。みずいろ、と正しくひらがなで表記したい、その音の連なりの感覚を久しぶりに思い出すような気持ちで、「いいなあ」としょっちゅう触ってしまう。それほど果敢な装幀だと思うのだ。そして印刷に疎い自分でもハッキリわかる、活版印刷の確かさ。端正で眼にやさしい本文組みの美しさ。カバーなし、帯なしの潔さ。
この本を手に取ったのは、オープン間もないジュンク堂書店吉祥寺店でのこと。その時はある方と一緒だったのだが、まあたらしい書店の棚というのはやはりおもしろくて、「こっちが外国文学か」「わ、けっこう詩集ありますね」「児童書も見ましょう」などと言い合いながらフロアじゅうを旅して、やがてこのみずいろに捕獲されたのである。
鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
収録された全314首の、冒頭の歌だ。あ。言い忘れたがこれは歌集です。歌集の書評など生まれて初めてのことで、自分としてはほぼ暴挙と呼ぶに近い感じだが、この際、キヨミズからジャンプ! 鳴るものなら自分の鈴を鳴らしてみたい、という誘惑に抗いがたく、さて始めてみよう。
卵ではなく鈴を産むひばり。あるいは、鈴としての卵を産むひばり、だろうか。可憐な形状、可憐な音を響かせるコロンとした円いモノがこの世に産み出される。しかし産んだひばりはといえば、「逃げ」てしまったらしい。ところが「ねえさん」は「これでいいよね」なのだという。
「それでいい」ではなく「これでいい」であることに注意したい。「それ」と言えばそこにはいくらか距離があり、客観性もあり、その世界には友人や両親もいるのだろうが、「これ」が指し示す生活には「ねえさん」と自分しかいない気がする。鈴を産むひばりは逃げてしまった。でも、これでいいのだ。ん? どこかで聞いたことあるな、このフレーズ。そうだ。「これでいいのだ」といえばバカボンのパパである。生活のすべての迷いや逡巡、価値の相対主義といった袋小路に陥りそうな時に現れるパパは、あらゆる状況を全肯定し、「これでいいのだ!」と、何の解決にもならない力強い断言で、脆弱なわれわれを再び世に送り出していたではないか。
だから歌集『鈴を産むひばり』は、ひばりが逃げたあとの世界を歌っている、サイレントで歌っているのだと、そう解釈することが可能なのではないかと思う。しかし、ひばりが鈴を産むという、ささやかだが決定的な奇跡が呼び起こした世界の記憶は、あまりに生々しい。本の冒頭でひばりが逃げてしまった以上、もはやあたらしい鈴は手に入らないが、しかし産み落としていった鈴が、少なくとも一個は手許に残されているだろう。
広大なこの世界に置かれた鈴の小ささ、その音の小ささ、小さいがハッとするような確かさが、たぶん、聴覚よりも圧倒的に視覚優位に見えるこの歌集の手綱を握っている。
『鈴を産むひばり』は、さまざまなフォルムを世界の中にそっと置くが、例えば球状のもの、カーブを描いたものをいくつもそこに見ることができる。
ポケットに電球を入れ街にゆく寸分違わぬものを買ふため
野におけば掛かる兎もあるだらう手帳のリングを開いては閉づ
どのやうに挿(い)れるフォークもこぼすだらうベリータルトにベリーはあふれ
わらふからそんなに君がわらふからためいきがまた飴玉になる
うるほへる瞳のごとき珈琲で事足る日々をただひとりゐる
なんの変哲もない日々の、ごくありふれたモノやコト。電球は時々は替えねばならぬだろうし、手帳ならしょちゅう開いたり閉じたり、ましてリング付のそれなら、「パチン」という音を楽しむためにも何度も触るだろう。恋人ならためいきも甘く、溢れるばかりのベリーを乗せたタルトを出す店では、そう、蛍光灯の白い光をその中に沈ませ、表面がやわらかくカーブして見える珈琲をカップで出すだろう。
そんなどこにでもある事象が、歌の力によって、世界の無関心の海の中からからスッと掬い出される。まるで上手に操作できた「UFOキャッチャー」みたいに。
きっと裸のままで入れられ、ポケットにいくらか不自然な出っぱりをつくっているだろう電球が、街中で見知らぬ人々とすれ違う、その時の危うさ。油断をすれば指を挟むかもしれない手帳のリングから、想像力が野に置かれた仕掛けにまで類推の旅に出る、その痛み。
例えば、光、に対する、歌人のセンサーの確かさを知ることも可能だ。
ゑのころを照らす停留所にいつか乗ることのないバスが来てゐる
にしびさす書架の森よりあらはれて椅子のかたちに人は座れる
自転車の灯りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち
暗闇に鹿の子の鼻に触るるごとあなたの噂に耳は湿りぬ
どうだろう、これまでちょうど十首を引いてみたが、「電球」の歌がやや異なる領域にあるやもしれぬ他は、いずれも注意深く音が退けられてはいないだろうか。いや、音がカットされているというよりは、ちょうど大型のカメラを三脚で固定し、ピントを絞って画面の隅から隅までをすべて等価値で撮ろうという、あのウィリアム・エグルストンらの「ニューカラー」の手法の比喩に訴えたほうがいいかもしれない。ただし、これらの歌の光景が「ニューカラー」的な映像だということではなく、音、それも「サイレント」という名前の音が、隅々にまで張り詰めているという意味で解釈したいのだ。
サイレント。ひばりはいないが、(おそらく)鈴が残されているだろうこの生活世界を貫く基調はそれだと、一読者として画定してみたい。鈴、とはいわばひばりの思い出であり、同時に小さく清らかに鳴ってみせる現在でもある。歌集『鈴を産むひばり』の世界は、鈴が鳴る瞬間を聴き分けようと、サイレントで待っている。歌集の中に封じ込められた住人たちは、誰かと会話を交わす時はごくつつましやかに、そして概ね独りでこの世の中に視線を送っている。姿勢が特にこわばったり、緊張するようなことはないが、それでもどこか、待機の姿勢を感じさせるのだ。むろん、鈴が鳴る瞬間、のためにである。
そしてその鈴は、この本の中の住人が聴くのではなく(だって彼らは実在しないのだから)、おそらく歌人と読者のあいだで鳴るか鳴らないか、そこに賭けられているのだと思う。読者の耳に鈴が届くために、その世界にはあまねくサイレントが浸潤している。
その「証拠」(?)と呼べるかもしれない、これまた小さな装置を歌集の中に見つけた。それは3回登場し、歌集の住人たちがサイレントを壊すことを防いでいる。
反戦デモ追ひ越したのち加速する市バスにてまたはめるイヤフォン
イヤフォンのコードに手繰るiPod nano わかさぎを釣る要領で
茶房にもあらぬ失せ物イヤフォンのコードの上にマフラーを巻く
ここまで触れてこなかったが、一見してわかるように、『鈴を産むひばり』ではすべて旧仮名遣いが採用されている。どのようにありふれた日常に取材しようとも、作品とは日常の延長にあるものではなく、まったく別個の構築物であることを、それは雄弁に語っているだろう。
歌集の「あとがき」には、聴覚としての鈴ではなく、著者が幼い頃に目撃した、ある鮮烈なヴィジュアルの思い出が綴られている。そしてそれを描写することこそが自分にとって短歌を詠むということなのだと、直裁に書かれもする。
それは実際、このみずいろの贈りものを自ら手にとって、確かめていただきたい。できれば、生まれてから一度も歌集など買ったことがないという人にも試してほしい。
歌うひばりが逃げてしまったあと、人がどんなふうに歌うかがわかるはずだ。