毎年、1月17日が近づいてくると、アタマの中に「神戸」という単語が去来する。別に自分自身があの阪神・淡路大震災に直面したわけではないけれど(妹夫婦は西宮市で被災した)、それでもこの国の多くの人々の記憶の中に、「1.17」が厳然と刻まれているのは間違いないだろう。
同時に、もう一つの「神戸」に連想を飛ばすのも、これまた毎年の常である。それは、素っ気なくもしかしそれ以外のタイトルでは決してありえないような美しい小説『神戸』のことだ。作者は西東三鬼。サイトウサンキ、と読む。俳人である。小説としては『神戸』とその続編である『続神戸』の二編を遺したのみだから、誰も三鬼を小説家と呼ぶ人はいない。いないが『神戸』は、先の戦争を経由した、戦後文学のとっておきのスゴ玉なのである。
時は第二次大戦下の昭和十七年冬。東京から遁走した「私」は、神戸の地に忽然とその姿をあらわす。神戸の著名な目抜き通りであるトーアロードに面した「国際ホテル」の住人となった「私」は、特に何をするということもなく「窓に頬杖をついた」無為で怠惰な日々を送っている。ところがこのホテル、人種のるつぼというか社会の底辺と呼ぶべきか、面妖な連中が昼夜を分かたず蝟集してくる場所であり、「センセイ」などと呼びながら、しょっちゅう「私」の部屋に訪ねてくる。のべつ嘘とホラ話で自分を飾りながら、どこから収入を得ているか誰にもわからず、時に大量の牛肉をホテルの厨房に売りつけたりする謎のエジプト人。比類なき掃除好きの模範の徒でありながら、商売は闇屋で、やがて朝鮮と台湾の実力闘争に身を投じて殉じる台湾青年。完全無欠のその日暮らしで、空腹を忘れるためにいつも寝ている原井さん。その原井さんと、「およめさんがほしい」と言って見合いをする老ドイツ人は、「潜水艦、巡洋艦の大食いの水兵が、五年間食っても食いきれない程の食料」がつまった、ドイツ海軍倉庫の番人なのだという。
こうした、年齢も属性も国籍も、そしていまなぜ神戸にいるのかもバラバラで、まるでデタラメな連中が蠢いている戦時下の奇妙な掃き溜めホテルを、西東三鬼は戦後になって、このうえない愛惜の念を抱きながら書き起こしていく。この小説の初出は昭和29年であり、雑誌「俳句」に掲載された。執筆を始めるまでにはそれだけの時間の熟成が必要だったのだろう。「頑強に事実だけを羅列」したと自ら作中語っていて、その真摯さに偽りはないと思われるものの、しかしそこはやはり小説ならではの巧みな虚構も施されていて、そうでなければこれだけの人物と時代と場所との見事な結晶は凝固しなかったはずである。
著者の愛惜の念とは、例えば以下のような場面に現れる種類のものだ。いささか長くなるが、途中で省略しないで、そのまま書き写してみたい。
私の商売は軍需会社に雑貨を納入するのであったが、極端な物資の不足から、商売はひどく閑散で、私はいつも貧乏していた。私は一日の大半を、トーアロードに面した、二階の部屋の窓に頬杖をついて、通行人を眺めて暮らすのであった。
その窓の下には、三日に一度位、不思議な狂人が現れた。見たところ長身の普通のルンペンだが、彼は気に入りの場所に来ると、寒風が吹きまくっている時でも、身の廻りの物を全部脱ぎ捨て、六尺褌一本の姿となって腕を組み、天を仰いで棒立ちとなり、左の踵を軸にして、そのままの位置で小刻みに体を廻転し始める。生きた独楽のように、グルグルグルグルと彼は廻転する。天を仰いだ彼の眼と、窓から見下ろす私の眼が合うと、彼は「今日は」と挨拶した。
私は彼に、何故そのようにグルグル廻転するかと訊いてみた。「こうすると乱れた心が静まるのです」と彼の答は大変物静かであった。寒くはないかと訊くと「熱いからだを冷ますのです」という。つまり彼は、私達もそうしたい事を唯一人実行しているのであった。彼は時々、「あんたもここへ下りて来てやってみませんか」と礼儀正しく勧誘してくれたが、私はあいかわらず、窓に頬杖をついたままであった。
なんというやさしい眼差しの交歓だろうか。「つまり彼は、私達もそうしたい事を唯一人実行しているのであった」が、完璧だ。このおかしな所業を「つまり」の一言で引き取り、普遍性の中に放り投げてみせる。いくらか大げさに言えば、ここで西東三鬼がやっていることはそういうことである。そして同時に、限りない愛惜を注ぎながら、平然と「狂人」呼ばわりしているところは正しく文学者の、いや、俳人の態度である。「礼儀正しく勧誘してくれた」には、微苦笑を禁じえない。
ここで西東三鬼という俳人について少し紹介しておきたい。1900年(明治33年)に岡山県苫田郡津山町(現在の津山市)に生まれているが、本名は斎藤敬直という。西東は斎藤のもじり、三鬼は、俳句を初めたら俳号を持たなければならぬということで、とっさの思い付きで適当に付けたものだ。6歳で父、18歳で母を亡くしており、長く長兄の庇護の下にあった。幼い頃より、条虫(サナダムシのこと)、チフス、胸部疾患、腰部カリエスなどなどを遍歴する病弱ぶりで、神戸に赴く数年前には一時危篤状態に陥っている。
25歳の時に当事東洋一の国際都市だったシンガポールで歯科医院を開業、しばらく歯科医として自営を続けるが、それも戦争の影が濃くなる頃には放擲してしまう。俳句とはまるで接点がなかったが、患者の熱心な勧めで戯れに始めたのが運のつき、以降、寝食を忘れ、女房子供を顧みず、の、俳句餓鬼道を生きることになる。女性遍歴、多数。『神戸』には、同じ屋根の下に暮しながら関係がプラトニックであったり、かと思うと、「まもなく病死するだろう老母に孫の顔を見せたいから、子供を産ましてくれ」と懇願されてそのとおりの役割を引き受け、「ムコどん」として長崎まで赴くというエピソードも挿入されていて、このあたりのデタラメさ(しかしそれはいつも必死の、誠実なデタラメさだ)は、まさしく西東三鬼の面目躍如といった感がある。
『神戸』の中で自身も使っているが、西東三鬼には「コスモポリタン」という言葉が似つかわしい。2011年の現在では、「コスモポリタン」なるワードは死語というか、もはや誰も口にしないが、覇権主義丸出しの今日的なグローバリズムとは違って、民族や国家に囚われず、個人対個人として誰とでも対等に付き合おうという世界市民主義がその内実だ。ズバリそういう名前のカクテルがあるから、コスモポリタンとはつまり「混ざっている」状態を指している。
平時ではなく第二次世界大戦下の奇妙な緊張と弛緩の思い出として綴られ、しかも職業的な作家ではない俳人が、ある種のメモワールとして小説のごときものを生まれてはじめて紡いでみるという仕方で産み落とされたこの小説は、繰り返すが都市名の「神戸」をそのままタイトルにしている。何の作為もなく、ポンと投げ出したようなタイトルだが、しかしそれは「東京」でも「大阪」でも「名古屋」でも「京都」でも、まして「広島」「長崎」ではあり得ない、むろんもっと人口の少ない小都市でもあり得ない、おそらく日本中で「神戸」でしかありえない世界性を獲得している。
『神戸』は、あまりにも神戸的な、そしてあまりにも西東三鬼的な書き出しで始まっている。ほんとうはページを開いた瞬間にその空気の中に取り込まれてほしいので書きたくないのだが、書かないとこれから言いたいことが進まないので、初めの2つのセンテンスだけ書く。
昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。
「東京」とは、「何もかもから脱走」する場所であり、「神戸」は「坂道を下り」る場所だという鮮やかな対比が、冒頭でこうして示される。完璧、とまた言ってしまいたくなるが、野暮を承知でグダグダ言えば、「冬」でなければ、「単身」で「夕方」でなければダメだし、なによりも「下りて」いなければここはまるでダメなのだ。もし神戸の坂を「私」が「上って」しまったら、あの掃き溜めのような国際ホテルにはけっして辿り着かないだろうし、『神戸』が傑作になることもなかったはずだ。西東三鬼の完璧なタッチは、この冒頭から文庫本にしてわずか9行で「アパートを兼ねたホテル」にまでさっさと辿り着いてしまう。
国際ホテルで「私」が係わった人々は、戦時下でありながら非常時態勢とは最も縁遠い人たちであり、軍を相手に商売をしながら軍を嫌悪する「私」の生活は、下降の一途を辿る。「私」はいつだって受け身で、いつも何かに巻き込まれていて、厄介ごとにアタフタさせられることと窓辺に頬杖付いて放心することをただ交代に繰り返しているに過ぎない存在だが、日本中が望むと望まざるとにかかわらず、「上」を見せられている時代に、その下降は切実である。「私」の下降は、堕落すること、「堕ちる」という自意識の身振りではなく、もっと物理的に坂道を下りるように「下」に向かう行為だ。
坂道を下りる時は、筋肉よりも関節に負担がかかる。しかも、関節を支える筋肉は、「上る」時に使う大腿筋などと違って極めて鍛えにくい。そもそも関節自体は、まったく鍛えることができない。
『神戸』の「私」は、国際ホテルの人々を、あたかも「関節」のように遇した。それらは、組織することも鍛えることもできないが、労わることならできる。深い愛惜の念を持って、見つめ、記憶し、そして書くことならできる。
冒頭から「下り」はじめていた西東三鬼の小説は、どんな勤勉さにも理想にも向かわず、ただ頬杖をつくことで、窓の「下」に「天を仰いだ彼の眼」を見つける。およそ世界に、なにかこれ以上、良いものがあるだろうか。
1月17日をダシにしてここまで来てしまったようで、いささか気がひけるけれど、しかし『神戸』といえばたしかにあの街の名前で、今から16年前にそういう大変な出来事があったのだけれども、そのまたおじいさん、おばあさんの時代にはこんな神戸もあったということ、そういう小説があってそれは今も文庫で読めるということ、そのことを知っていただければ幸いである。
講談社文芸文庫には、『神戸』の後日談としての「続神戸」と、俳句の昭和期の革新や弾圧を生きた「随筆的記録」である「俳愚伝」を併録している。