久々に伝記を読んだ。伝記だから、むろんそこには一人の人物の生涯が書かれている。しかし、これがほんとうに人生だろうか?
そこに、幸せはあったのだろうか? 過去の自分を引き摺った――この本を読む前の自分は少しだけ過去の自分だ――凡庸な気分が、そんな疑いを隠せずにいる。しかし同時に、読んでしまい、読者としての経験を持った、ちょっとだけあたらしい自分は、実はもう、理解しつつもあるのだと思う。これこそが人生であり、そこに大いなる幸せは確かにあったと。
ジョゼフ・コーネルの、69年と5日の生涯は、やはりあまりにも「特殊」である。それはおそらくどんな人の人生にも似ていないし、もしコーネルと同じような生を全うした人がいたとしたら、間違いなくその人生が後に伝記になることなどあり得ない。コーネル自身、「まさか自分のことが伝記になろうとは」思いもよらなかったろうと、著者のデボラ・ソロモンは書く。それは地味とか目立たないといった形容を超えて、消失や隠遁に近いものだった。後の多くのアーティストに多大な影響を与えた芸術家の生涯となれば、特に20世紀に生きられたそれは、スキャンダラスなもの、世間の常識から外れたものに事欠かない。ピカソのような旺盛な生命力、法外な行動原理や性愛、事件などはいくらも見つかるだろう。コーネルの人生はそれら、外へ外へとあふれ出す、普通人の生からみれば more に溢れた一生とは真逆に、必要以上に閉じこもりきった、あれもしない、これもやらない、ないないづくしの less の人生だった。
しかし、less=欠如 と見るのはあくまで凡庸な我々の常識に過ぎない。スーパースターの伝記にけっして現れないような奇妙に狂おしい時間を、コーネルは生きていた。それを丹念に採集し、再生してみせたのがこの『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア』の試みである。
いつもの昼下がり、ジョゼフ・コーネルは、紅茶とチェリー・パイを食べようと地元のビックフォード・レストランに立ち寄った。痩せた亡霊のような男が、自分専用のテーブルで軽食を楽しみながら、前屈みに本に向かっている。ショパンやゲーテといった傑物たちの評伝を熱心に読み耽り、小休止するのは、紙ナプキンにメモを走り書きしたり、鳥のような鋭い目つきでウェイトレスを眺めたりするときだけだ。コーネルは伝記を愛読し、なかでも詩人、音楽家、科学者についての書籍を何十冊も持っていた。それは、彼が他人と友情を築くのが苦手だったことを多少なりとも裏付けている。彼は、死者とならうまくやれた。
実に魅力的なこの書き出しですでに、本書の方向性はピタリとベクトルが定まっている。どこにもそう書いていなくても、それが一人きりの時間だということがわかるし、コーネルの相貌、非社交性、死者への親和=生きている人物への恐怖と嫌悪、が見て取れる。「紙ナプキンにメモ」も重要で、コーネルの日記は誰にも理解できない詳細なメモの集積だった。ウェイトレスとは会話を交わすこともできないのに、勝手に好意を寄せたり、観察したりすることがしばしばで、ある日突然、無言で花束を渡そうとしたものだから、とっさにピストルと勘違いされ、警察を呼ばれるという悲劇に発展したこともある。
1903年12月24日、つまりクリスマス・イヴの日に、ニューヨーク州サウス・ナイアックに生まれた小柄な男は、父とそっくり同じ、ジョゼフ・コーネルと名付けられた。正確には、ジョゼフ・I・コーネルなのだが、ミドルネームを表すイニシャル「I」が何を表しているのか、「生涯わからなかった」というのがスゴい。「わからなかった」って、親に聞かなかったの? 聞いても憶えてなかったとか(まさかね)? とにかく常識では理解しがたいような「欠落」が、コーネルの人生と本書にはふんだんにちりばめられている。
ジョゼフ・コーネルが今日、世界中で知られているのは、あの魅力的な「箱」の美術家としてである。昔の女優のブロマイドや古い切手、地図、天体図といった紙モノ(古本好きの人は書物と区別するため、これらを「紙モノ」と呼んだりします)をはじめ、金属の輪、ぜんまい、パイプ、人形、ガラス壜、海岸で拾ってきた貝殻などを組み合わせて、手製の木の箱の中に小宇宙を形成する。それがコーネルのやり方だった。つまり、彫刻や塑像を自ら制作するのではなく、既製品を組み合わせた立体作品をつくること。今日では「アッサンブラージュ」という美術用語が適用されているこの手法は、コーネルの時代にはアートの主流でもなんでもなく、実際、コーネルが名声を得たのは晩年になってからである。
ジョゼフ・コーネルの人生がいかに「特殊」だったか、その驚くべきエピソードの多くは、本書を読む楽しみのために書かずにおくとして、ここでは三つばかり挙げておきたい。第一にコーネルは、デッサンやスケッチのできない人であったこと。第二に、生涯のほとんどをニューヨーク州ユートピア・パークウェイの自宅付近で過ごし、外国はおろか、「インディアナ州より向こう」には一度も行ったことがないこと。第三に、一生童貞であったこと。
コーネルの人生は「できない」「行かない」「触れない」「会わない」「間に合わない」「売らない」等々の連続であり、それら個々の「ない」を点とすると、点の数があまりに多いために、少し離れて眺めると、なめらかな曲線のように見えてしまう、おそらくそんな生涯だった。その中で、世界的な名声を博した美術家でありながらデッサンがまったくできなかったこと(有名になった後でコーネルはデッサンを学校で学ぼうとしたことがあったが、むろん、教師のほうが大いに困惑したという)は驚くべきことだし、ショートフィルムを作ったりしたにもかかわらず自分ではカメラを操作できなかった(それどころかスチルカメラでの撮影もできなかった)のもちょっと信じがたい。
ニューヨーク州からほとんど外に出なかったのも、障碍(脳性麻痺)を抱えた弟ロバートの存在があったからというだけでは説明が付かず、やはりその際立った不活発さと、他人とうまく社交できない性質があってこそだろう。
そして極めつけは「性」を極度に怖れていたことだ。しかしそれは女性や女体の嫌悪ではなく、むしろコーネルにとって常に女性はあこがれの存在であり、であるがゆえに目の前にある女性の身体に対してどうしても勇気が出せず、安心して愛でることができるのは昔のバレリーナや女優など、けっして自分と触れることのできない存在ばかりだったのである。
コーネル信奉者には怒られるかもしれないが、コーネルが「箱」で見せたマジックの背景にあったある種の不思議なエネルギーを説明する際、みうらじゅんと伊集院光がかつて「DT」と呼んだもの、つまり「童貞力」という言葉を使うのがいちばんピッタリすると思う。しかし、急いで付け加えなくてはいけないのは、女性の身体ではなく2次元の画像を使って(オカズにして)、性欲を解放するのではなく(少なくともそのことはこの伝記には書いていない)、誰も禁じていないのに、自分をがんじがらめに縛って、性の行いからわざわざ遠ざかってしまっていることである。
『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア』の功績は、一般的な成功者の人生やハッピネスからすれば、まるで幸福とはいえそうもないコーネルの人生を丁寧に素描することで、いわば彼の人生における「ネガ」が作品として「ポジ」に転化する経緯や瞬間を捉え、「芸術家はただその遺した作品を見ればいいのであって、人物や伝記は関係ない」という正論(その意見は常に正しい)を骨抜きにしてしまった点にある。とりわけジョゼフ・コーネルの場合、その生涯の大半が、「夢想する」と「蒐集する」に充てた人生だったことを正しく見据えて(それはコーネルがやった、数少ない「する」行為だった)、コーネルが一生のうちに生み出したおよそ800点の「箱」の中にあるものが、「夢想」と「蒐集」でできていることを説得的に語りえているのが見事である。
それはまさに、彼の箱のひとつひとつのねらいでもあった。うち捨てられた物や図像を家族的な調和にまとめあげるのである。
それぞれの箱はいうなればひとつの家族、互いに結びついたものの寄せ集めだ。その断片は優雅に寄り添いながら相互に関連している。コルクやバネの曲線的なかたちが互いに響き合う一方で、単調に繰り返されるさまざまな要素が、互いの根本的なつながりを再確認する役割を担っていた。家族の安心感はコーネルにとって常に不安定なものであったが、彼は新しい箱を作るたびに新しい家族を再構築したのだ。それは、まるで王族のように魅惑的で自己充足的な家族であった。
「自己充足的な家族」。この表現ほど、コーネルの箱を端的にうまく表現したものもまたと無いだろう。デボラ・ソロモンが書いた、日本語訳にして500ページのこの大冊は、原題は「Utopia Parkway:The life and work of Joseph Cornell」である。「ユートピア・パークウェイ」とは、ニューヨークの近郊地区であるクイーンズの北東部にある通りの名前であり、ユートピア・パークウェイ三十七番地八号、というのが、25歳から69歳で亡くなるまで、生涯、コーネルとその家族が住み続けた住所だった。「ユートピア・パークウェイ」という、一見牧歌的な名前は、単に「ユートピア不動産会社」を名乗る、宅地開発に乗り出した投資グループ名に由来しているに過ぎず、アメリカン・ファミリーの家にしてはいささか手狭な、典型的な中産階級の木造家屋だったというから、このあたりのオーラの無さというかありきたりな感じも、実にジョゼフ・コーネルに似つかわしい。
ありきたりといえば、先に引用したコーネルお気に入りの店、「ビックフォード・レストラン」も、かつて偉大な芸術家が足しげく通った店として後に観光地化するような、そんな伝説的な店、あるいは個人経営の親密な店などではぜんぜんなく、全米のどこにでもあるチェーン店の一つに過ぎない。これもあまりにコーネル的かつアメリカ的で、すばらしいと思う。第15章、全体の2/3ほど筆が進んだところでデボラ・ソロモンは、もう一度コーネルを、彼がいちばんリラックスできる場所、ビックフォード・レストランの「窓際の最前列」に呼び出す。章のタイトルは、同じニューヨークにあるあの有名店とは似ても似つかないほど大衆的な、「ビックフォードで朝食を」だ。
ビックフォードには、大通りを眺めることのできる大きなガラス窓があり、コーネルはその前のテーブルにつくのが好きだった。
「窓際の最前列に座れた」と、ある日、その幸運に感謝して記している。窓の向こうを眺める――その行為は、いつも彼を興奮させた。たとえ、そこで目にする景色がぱっとしない大衆的なビックフォードであったとしてもだ。彼はとにかく何でもメモし、その虜になった。書き記したものを捨てることなどできなかった。「六月 ガラス窓の前で、牛乳屋のトラックが地下室に納品」。こんなふうにとりとめもなく書き留めていった。
街の中で他人にまみれるのではなく、ガラスのこちら側で、コーネルは向こう側を熱心に見つめた。デボラ・ソロモンはこのあと、コーネルのメモが、ガラス窓を通して見た「大通りを行き交う少女たちの姿」を「気味が悪いほど正確に写し取っていった」と書いている。さぞや薄気味の悪いおっさんだったことだろう。ウェイトレスは変態だと思っていたかもしれない。しかし、この「大通りを眺めることのできる大きなガラス窓」には泣かせられる。それは、コーネルのつくった箱の大きさがせいぜい一辺が50センチ程度の控えめなものだったことと対照的な大きさである。コーネルは見たかった、どんなものでも。とりわけ女性たちを。
「向こう側を見る」ことくらいしかできなかったコーネルは、少し奥行きのある「箱」という形式を生涯手放さず、こちら側から向こう側を見るものとして、そして見える世界は永遠に無垢なままで封印されたものとして在る、そのような作品をずっとつくり続けた。
まるで、地味だが忘れがたい旅から帰ってきた時のような、心地よい疲労感を読後に残す、すばらしい伝記である。
なお、本書に関心を持つか、もしくは実際に読んだあとでコーネルの「箱」作品のカラー図版を見たくなった方には、アメリカの詩人(生まれはベオグラード)、チャールズ・シミックが書いた『コーネルの箱』(柴田元幸訳・文藝春秋)を併せてお勧めしたい。