ゆえあって一時期、地下に関する本ばかりを集めていたことがあった。ジェニファー・トス『モグラびと』(早川書房)などの地下生活者の暮らしを描いた本を読むと(この本自体は都市伝説をそのまま書いたものなのではないか、という気がするのだが)、自分の足元に未知の世界が広がっているという幻想が膨らみ、つかの間現実を忘れられるような気分がしたものだ。もっとも、早坂隆『ルーマニア・マンホール生活者たちの記録』(中公文庫)といったルポルタージュには、そうした甘い幻影を打ち砕くだけの現実の重みがあった。地下生活者は好きこのんで漆黒の世界に居を移したわけではない。そうせざるをえないだけの切迫した事情があり、地上に身を置けないという悲壮な決意をもって彼らは地下の住人になったのだ。
幻想世界を夢見る者は、いつだって能天気な楽園を胸の裡に思い描いている。
そうした批判は承知の上で、ある小説を紹介したい。フェリス・ホルマン『地下鉄少年スレイク』(遠藤育枝訳)という作品だ。版元は出版工房原生林という会社だが、amazonには登録がないし、boopleでも書影は出ていないので、別のサイトのURLを一つ貼っておく。あとは各自調査。きっと図書館に行けば、読むことができると思う。
http://www.garitto.com/product/index/10695564
これは13歳のアーミス・スレイクの物語だ。はっきりとは書かれていないが、スレイクは不幸な生い立ちをしてきた少年のようである。アパートに「伯母まがいの人物」と一緒に住んでいて、決して可愛がられてはいない。近眼だが、眼鏡はもっていない(そのせいか、空想癖の持ち主だ)。彼は「盗みではへまばかりやるし、煙草やクスリはどうしても体が受けつけ」ない。彼はちびで、「完全にのけもの扱いか、気晴らしに追いかけまわす獲物にされるかしかなかった」。
そんなスレイクの現実対処法は、地下鉄の構内へと逃げこむことだ。「もしもの時に備えて、ポケットにはいつも、地下鉄切符(トークン)が一枚入ってい」て、誰かに追われると、それを使って地下に降り、ほとぼりが冷めるまで地下鉄に乗ってやり過ごすのである。
だがある日、決定的なことが起きる。避難所であるはずの地下鉄の駅で、スレイクは追手につかまえられそうになってしまうのだ。彼はプラットホームの端から飛び降り、真っ暗闇のトンネルへと駆け込む。列車の通過中に保線作業員が入るための待避所を探しながら歩いていくと、そこには予想外のものがあった。トンネルの壁に穴があいていたのだ。兎を追いかけて洞に飛び込んだアリスよろしく彼が穴をくぐると、そこには線路ではなく、地下の一室といってもいい空間が広がっていた。
スレイク自身は知らなかったが、それは地下鉄の壁の向こうの、コモドアホテルに属する空間だった。ホテルが建築されていた当時、作業員が間違えて余計な場所を爆破してしまったのである。その空間は当然のごとくふさがれたが、年月が経つあいだに覆いが破損し、地下鉄のトンネルに向けて入口が開いた。そこに、チビで近眼で行き場をなくした少年が、迷いこんだというわけなのだ。
以降、121日間にわたって、アーミス・スレイクはこのコモドアホテルの特別室で暮らすことになる。
不自由極まりない、と思われる地下の暮らしだが、スレイクは偶然のことから生計を立てる方策を発見する。地下鉄の駅に置き捨てられていく新聞を集め、電車を待っているひとびとに売りつけることを覚えたのだ。食料は駅のコーヒースタンドで調達できる。水も洗面所で飲むことができる。こうしてサバイバル・ライフが可能になるのだ。
この地下鉄のロビンソン・クルーソーは、ダニエル・デフォーの創造した本家と同様に、仮住まいの家にものを貯めこんでいく。孤島の主は島の漂着物や収穫したものを集めていたのだが、アーミス・スレイクの狩場はもちろん地下鉄の構内だ。彼が蒐集したものの一部を引用しておこう。
紙類――しわを伸ばして積み重ねた紙袋。コーヒースタンドから取ってきたナプキン。ベッドと包み紙用の新聞。読書用と写真をちぎる予定の雑誌。紙コップ。朝早く店先に捨ててあるダンボール箱は、家具と貯蔵容器になる。
美術用品――ほぼからっぽのいろんな色のスプレー十個、それにマジックと鉛筆は豊富にそろっている。いちばんのねうちものは、スレイクが自分で調合した接着剤で、おもな材料はガムと、線路わきにたまったタールみたいにねっとりした油。この接着剤が見事にものをくっつけ、穴をふさいでくれる。
その他もろもろ――いろんな形や大きさのボタン。イヤリング。ひも。マッチ。靴のヒール。プラステイックのフォークとナイフ。口紅二本。からっぽの皮財布二つ。
孤児として虐待を受けながら暮らしていたスレイクにとって、これだけのものを自分のために持てる、それだけの保管場所を確保できるというのは、実は初めてのことだったのだ。彼を追いまわす者がいない地下鉄の構内、そしてコモドアホテルの穴が、スレイクにとってはこの上ない安らぎの場となっていく。
物語にはスレイクの視点とは別に短い断章が挿入されており、そこに出てくるウィリスジョー・ウィニーという人物が、スレイクの暮らしに再び転機をもたらすことになる。物語の終わりで、唐突に二人は出会う。地下に逃げこむことで己れの運命を変えようとした少年が、神の気まぐれとしかいいようのない形で再び地上へつまみ上げられるのだ。すべてのことに背を向けていた少年が、思いがけず人の好意に触れ、それまでは存在しなかった人生の選択肢を与えられる。彼が自らの意志で地上へと歩き出す場面を描いて、小説は終わる。彼の決断のきっかけとなったものは、ウィリスジョー・ウィニーの自筆のサインが入った、手紙だ。
――生まれてはじめて手紙をもらったスレイクは、ウィリスジョー・ウィニーが誰だか知らないことより、手紙をもらったことにびっくりしていた。この世の中には、スレイクの知らない人やどうでもいい人がいっぱいいる。大切なのは、誰かがスレイクにおだいじにといってくれるという不思議な事実だ。
偶然の出来事によって人の運命が変わることがある。
だから人生も、捨てたものではない。
そんなことをさりげなく主張している小説だ。地下鉄の構内やトンネルの中で拾い集めたものでスレイクは生活していた。ウィリスジョー・ウィニーの好意もまた、彼にとっては一つの拾い物なのである。コモドアホテルの特別室に貯めこんだ蒐集物同様、その手紙もたいして意味のあるものではないだろう。せいぜい、少年にもう一度階段を上ってみようという気まぐれを起こさせるぐらい。
でも、アーミス・スレイクは階段を上った。
付記:以前から言っているようにブックジャパンでは、広義の公刊物であれば何を取り上げても大丈夫である。『地下鉄少年スレイク』のように、ネット書店では現在購入ができないものであっても全然問題ない。上に書いたように、どうすればそれを読むことができるのかを書いておいてください。