ツィッターをぼうっと眺めていると、140字というわずかな文字数の中におもしろいことが書かれたツイートが流れてくることがあって、始終感心させられる。箴言ふうあり、気の利いたジョークありで、これなら自分もリツイートするな、いや、これはしないな、などとぼんやり考えながら眺めているのも楽しいものである。
よく考えてみるとこれって、大昔に彼我の違いとして教えられた、英米におけるジョークを言う習慣についてのお話に似ている。どんな書き手がどういう文章に書いていたのかはすっかり忘れてしまったが、新聞を読んでいたおばあさんが、突如その一画をジョキジョキと切り始め、「いいジョークがあったから、あとで姪/孫/嫁に話してあげなくちゃ」なんて言うという、つまり向こうでは、ジョークがそのくらいコミュニケーションの中で重視されている(それに対して日本は)ということを言いたいがためのエピソードである。それって、ツィッターでみんな普通にやっているよね。昔の日本人は「いいニュースと悪いニュースの二つがある、どっちから聞きたい?」なんてことは言わなかったものだ。「いい民○党員は議員を辞職した○主党員だけだ」なんてひねくれた言い回しはしなかったものだ。そういうことを言うと、浮いてしまってしかたなかったのである。一昔、二昔前のドラマなんかを見るとだいたい居たたまれなくなるが、理由は、その当時は気の利いた言い回しと聞こえたものが、今やとんでもなく恥ずかしい言葉に変化してしまっているからだ。なんかね、駄目だったのである。
それがいまや、ツィッターのおかげで日々ジョークの研鑽である。もちろん中には上滑りな言葉もあるが、何十人にもリツイートされた言葉は、洗練が十分に行き届いている。もしかすると今なら、コーリイ・フォード「あなたの年齢当てます」のようなユーモアの傑作が日本でも生まれるかもしれない、と思うのである。
フォードは1902年生まれのアメリカ人で、1969年に没するまで、500篇余の短篇を雑誌に発表し、30冊以上の著作を上梓した。故・浅倉久志は、アメリカの雑誌に掲載されていた、さまざまな形の笑いを誘う掌編たちを〈ユーモア・スケッチ〉と命名して愛でたが、フォードはその代表的な書き手でもある。まったくのナンセンスからパロディ風のもの、ペーソスを感じさせるすがれた笑いまで、作風は多彩だった。したがって〈ユーモア・スケッチ〉とは何かと聞かれたら、フォードの書いた文章がそれだ、と答えれば、ほぼ正解といっていい。
フォードの書いた文章の中で私が好きなものに、「死んでもダイエット」がある。これはダイエット教本のパロディ形式で書かれていて、その中に〈早老短命ダイエット法〉が紹介されている。これは「いたって単純だが革命的な原理」に基づいたもので、守らなければならない原則は「食事のさいにはなにも食べるな」。「節制はまったく不要、制限もまったく不要。好きなものを注文して」いいが、以下のような食べ方を心がける必要がある。
1 食べ物の外側だけを食べる。たとえば、ジャガイモの皮、グレープフルーツの皮、落花生の殻、食パンがはいっていたセロファンの包装。
2 食べ物の内側だけをたべる。たとえば、トウモロコシの芯、スイカの種、オリーブの種、カクテル・ソーセージにさした爪楊枝。
3 食べ物がのせてあるものだけを食べる。たとえば、レース編みのドイリー。
こんな具合に、ナンセンスな言葉が連ねられている文章は流し読みするだけでも楽しい。
フォードの文章でもっとも有名なものは、「あなたの年齢当てます」というスケッチだ。
これは初老の域にさしかかった男が、日々の暮らしの中で感じる違和を書いたもので、いつの間にか背後に迫ってきていた老いを、さりげない言葉の中に織りこんで語っている。それが「さりげなさすぎる」のが笑いを生むのである。こんな具合に。
――このごろ建物の階段は、むかしより勾配がきつくなったように思う。けこみが高くなったのか、段数が多いのか、なにかそんなことにちがいない。
たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば階段を二段ずつ登るのもめっきりむずかしくなった。いまでは一段ずつ登るのがせいいっぱいだ。
――仕立屋も以前のような生地を使わなくなったらしい。よくよく見ると、わたしのスーツはどれも縮みたがる傾向があるのだ。とくに腰まわりとか、ずぼんの尻のあたりとか、特定の部分がよく縮む。
まだまだ続くのだけど、このくらいで。フォードはこの一文を自分の体験から思いつき、1949年にコリヤーズ誌に発表した。身につまされた読者が多かったらしく、大反響があった。フォードの文章をそのままカーボンコピーして友人たちに配る人が現われたのだ(リツイートだ!)。配られた者も、それをコピーして周囲に撒く。かくして、幸福の手紙よろしく、フォードの文章は多くのアメリカ人の目に留まることになった。
ただし問題が一つあった。コピーの作成者たちは、しばしば作者の名前のところにコーリイ・フォードと入れることを失念し、うっかり自分の名前を書きたがったのである。気の 利いたジョークの入った、クリスマスカード代わりにそれを使う。他ならぬフォードのところにも、そうしたコピーが多数送られてきたそうである。ご丁寧にも「きみもたまにはこれぐらい滑稽なものを書いたらどうだ?」というメッセージつきで。
かくしてフォードは、〈@Corey Fordなしでリツイートされた〉自分の文章を見つけ盗作行為を訴えるため、大忙しになった。後にこの一文を収録した単行本を刊行してからはさすがに盗作の事例は減った。しかし今度は転載許可を求める手紙が殺到して、それはそれでまた忙しくなってしまったのである。フォードは以上のような経緯を書き残しているのだが、理不尽な体験について書いた文章であるにもかかわらず、読むとたいへん可笑しい。
言い忘れたが、上で紹介したフォードの文章はすべて、ハヤカワepi文庫の1冊である『わたしを見かけませんでしたか?』という題名の短篇集に収録されている。全部で19篇のスケッチが収められた本である。私の家の書棚には、この本が何冊かある。なぜか、読もうとするとすぐにどこかに雲隠れしてしまうため、そのたびに買い直しているのだ。こういう本が最近は増えた。きっと、よほどの恥ずかしがり屋が作っているのだと思う。