書評サイトBookJapan主宰の杉江松恋です。
東北地方太平洋沖地震で命を喪われた方に謹んで哀悼の意を捧げます。
現在、行方がわからなくなっている方の無事をお祈りし、避難生活を送られている方が元の生活に戻れる日が早くくるよう、精一杯のことをしていきたいと思っています。
当サイトは、これからもできるかぎり書評の掲載を続けます。非常事態の中で、それどころではないという批判はあるかと思います。しかしどんなときであっても、本を読むという行為を欲している人はいる。先の暗い戦争の間も、徳川夢声が吉川英治『宮本武蔵』を朗読するラジオ番組はたいへんな人気を博したといいます。戦時下で本が容易には手に入らなくなり、夢声の語りだけがお話へとつながる唯一の途になっていたからです。
読書は、好きな人にとってはそれを欠けば渇きを覚えるほどに、日々の暮らしに潤いを与えてくれる行為です。BookJapanは弱小サイトではありますが、そしてできることは本当に僅かでしかありませんが、読書の悦びと、本について語る愉しみの両方をお届けするため、少しずつ努力していきたいと思います。
お暇なときだけで結構です。ちょっとした息抜きに、いらっしゃってください。
ここからは、ちょっと文体を改める。
そうはいっても日々不安なことがいっぱいあるし、まとまって本を読む時間なんてあまりとれない(これから関東地方では計画停電も行われるはずですし)。そういう方に紹介したいのが、レオポルド・ショヴォー『ふたりはいい勝負』だ。
小説家・ショヴォー氏が息子のルノー君にお話を作って聞かせる。主にそんな形で展開する掌編が、43個も入った短篇集なのである。実はこの本は、〈ショヴォー氏とルノー君のお話集〉と題した短篇集の最終巻になるもので、全5巻の構成になっている。本書を読んで、おっ、と思った人がいたら、本書を脇に置いて、第1巻の『年をとったワニの話』(山村浩二によってアニメーション化されたこともある)から読み始めても結構。さっきも言ったように、ぱらぱらっと暇なときにお話をつまみ食いしてみたい、という人は本書から読み始めるといい。たいがいのお話が、ショヴォー氏とルノー君の会話で始まり、そのかけあいで進んでいくという形式になっている。
たとえば「ゆううつ」という話は、こういう出だしだ。
ルノー君がうかない顔をしている。わたしは声をかけてやった。
「どこか、ぐあいでもわるいのか」
「ううん」
「じゃ、どうしたんだ」
「ぼく、ゆううつなの」
「ゆううつか。でも、どうしてだろうね」
「ずっと、ばかみたいなことを、いってないからさ」
正味2ページだけしかない話だから、これでも会話の4分の1ぐらいは紹介してしまっている。ごくごく短いコントで、日常のふとした情景を描いたスケッチと見えるものから、ナンセンス極まりないものまで、いろいろ取り揃えられている。私のお気に入りは「あべこべの話」だ。
ある日ルノー君が「お話っていうのは、どうして、みんな、おんなじ方向へばっかり、進んでいくんだろう」と言い出したことから、ちょっとおもしろいことになる。ルノー君は考えたのだ。そして小説家であるショヴォー氏に提案する。
「それよりも、最初におしまいを話してさ、それから、あべこべに、そのまえにおきたことを順ぐりに話していって、はじまりにたどりつくってほうが、ずっとおもしろいと思うんだ」
ショヴォー氏はこの挑戦を受けてお話を始める。ある人物が死ぬところから始まって、生まれるところで終わる、あべこべの話だ。だが、そのお話には変なところがある。お話なのに、主人公は「だれとかさん」と呼ばれるだけで、名前がないのである。そのことを指摘したルノー君に、ショヴォー氏は答えた。
「だって、名前っていうのは、生まれたとき、つけるものだろう。このだれとかさんは、お話の終わりのところで、やっと生まれるわけだよ。なにしろ、このお話は、あべこべに進むんだから」
こんな具合に「だれとかさん」の人生が語られていくわけである。ちょっとした奇想が、デフォルメのきいた構図で展開されていく。常に後ろ向きにしか歩くことができない(なにしろ、あべこべだから)「だれとかさん」の姿は、まるで舞台で演じられる軽演劇のようだ。この話、実は小学校の読み聞かせで口演したのだが、後ろ向きにせっせか歩いていく主人公の姿を想像して、子供たちは始終笑い通しだった。大人が読んだっておかしいのだから、当然だ(ルノー君の幕切れの台詞が、またいい)。息子に対してショヴォー氏は、過剰なほどのユーモアのセンスを発揮するのである。
シリーズの全5冊にはすべてショヴォー自身による挿画が再録されているが、これは単行本版の編集者であった堀内誠一が執念を燃やして収集したものだ。文章と絵との組み合わせによって極力著者の意図を再現すべく、批評的な検討が行われた。お読みになる際は、ぜひその絵にも注目してもらいたい。
この短篇集の掉尾を飾るのは「じゃあね」というお話である。仲良し父子の日々は、ある日唐突に変化を迎える。ルノー君が小学校にあがることになり、それまでのような一心同体の生活は送れなくなるからだ。わが子が校門へと消えて行くのを見送る父親の姿を描いて、物語は終わる。
「しっかりするんだ、弱虫おやじ」
わたしは大きな音をたてて洟をかみ、さんざん、まわり道をして、家に帰った。
ルノー君は、ショヴォーの本当の子供の名前だ。しかし彼の実際の私生活は、小説に書かれたような暢気なものではなく、悲しみに満ちていた(第2巻『子どもを食べる大きな木の話』の巻末付録に詳しい)。そうした悲痛を、彼は作品に持ちこまなかったのである。逆に愉快な人物として父子を描き、小説の中に定着させた。私には彼らが、ショヴォーの祈りによって生み出された創造物に見える。世の中には辛いことが満ちている。しかし、小説の中の二人はいつものほほんとしていて、ナンセンスな笑いが大好きなのである。
そういうショヴォーの小説を、私はこの上なく好ましく思っている。