ケイト・モートン『忘れられた花園』(東京創元社)は、最近読んだミステリの中でも屈指のおもしろい本だった。その冒頭に、四歳の少女がオーストラリアまで船旅で単身やってきて、港に一人でいるところを発見される、というくだりがある(なんでそんなことになったのか、というのが、この小説では大きな謎として扱われるわけである)。
トランクの上にすわり、ぼうっとあたりを見回している少女。
このイメージ、どこかで見たことがある。
そう思って記憶を検索してみて、思い出した。あ、あれじゃないか。
マイケル・ボンド『くまのパディントン』である。
――奥さんは、ご主人の指さす方へ目をやりました。影になっているところに、ぼんやり、何かちいちゃな、ふわふわしたものが見えました。それは、スーツケースらしいものの上に腰をかけていて、首から何か書いた札をぶらさげていました。スーツケースは古くて、ひどくいたんでいて、横のところに『航海中入用手荷物』と書いてありました。
ブラウンさんの奥さんは、思わずご主人の腕をぎゅっとつかんでさけびました。
「まあ、ヘンリー! あなたのいうとおりだわ、やっぱり。ほんと、クマだわ!」
ね? 『忘れられた花園』という小説は、こうした具合に読んでいると過去のいろいろな先行作品を思い出すような書かれ方がしてあって、それが魅力にもなっているのである。
話を『くまのパディントン』に戻すと、パディントン駅のプラットホームでブラウン夫妻に発見された小さなクマは、結局家族の一員として夫妻の家で暮らすことになる。パディントン駅で見つけられたから、パディントンという名前なのですね。忘れている人が多いかもしれないが、パディントンはペルーの出身だ。ずっとルーシーおばさんと一緒に暮らしていたのだけど、おばさんが年をとって「老グマホームへはいるよりしかたがなくなった」ために、船に密航してイギリスまでやってきたのである。
パディントンは基本的に物を知らないから、何かをしようとするとすぐに失敗をやらかしてしまう。作者は、その憎めない失敗を楽しげに綴っていくのだ。ちょっと菓子パンを食べようとしただけで、「片足はテーブルの上、もう片方はブラウンさんのコップの中というかっこう」で「顔にはあっちにもこっちにも白いクリームがベタベタとくっつき、左の耳には、イチゴジャムのかたまりがぶらさがって」いるようななりになってしまうクマが、もしもうちにやってきたら。そう考えるだけで子供たちは、ワクワクしてしかたない気分になるはずだろう。わー、想像しただけで楽しくなってきた。
作者のマイケル・ボンドは、英国のTV局BBCで技術助手やカメラマンとして働いていた職歴のある人だ。10代の終わりから小説は書き始めていたが、1958年に本書を刊行したのが作家としてのデビューで、以降1965年までは兼業状態が続いた。パディントンのお話がスラプスティック・コメディとして書かれているのにも、TVマン時代の蓄積が役立っているはずである。
第一作品集である『くまのパディントン』には八編が収録されている。共通しているのは、どの作品にもまったく教訓めいたところがなく、また日常生活から遠ざかるようなお話もないというところである。日常の中にやってきた、かわいい(だけどちょっと間抜けな)クマが、何かをやらかしてしまう。ただそれだけの物語を、パターンを変えていくつもボンドは書いた。これはたいへんなことで、尊敬に値する。動きで見せるギャグの連続だけを武器にしてお話を書くのが、いかに難しいことか。パディントンという稀代にコメディアンを得たからこその素晴らしい職人芸である。
「ぼく、ちょっと考えごとしてるんだ」
――バードさんはドアをしめると、急いでしたへおりて、みんなにこの話をしました。話を聞いたみんなの気持ちは複雑でした。
「ただ考えごとをしてるってだけならいいんだけど、」と、ブラウンさんの奥さんは心配そうな顔をしていいました。「いったん何かを考えついたとなるとやっかいなのよ。」
この、いるだけ、何かをしているだけであたりの人をソワソワさせるというのが、コメディの主人公の資質だ。それにかかわる人の気持ちを賦活させるからである。これを読んで、楽しくならないはずがない。世の中の楽しい本はあらかた読んでしまって、もうあまり読書に期待していない、という人はぜひ『くまのパディントン』に挑戦してみるといいと思う。大人でも、絶対に笑うから。
本シリーズの邦訳は福音館書店から全10冊で刊行されている。ただ本国での刊行点数はもう少し多く、2008年にも絵本形式でオリジナル作品が発表されているようだ(“Paddington Rules the Waves”“Paddington Here and Now”の2冊)。画家は時代や本のスタイルごとに代わっていて、初代がペギー・フォートナム(福音館書店のシリーズで出ているのはこれ)、1970年代にボンドが手がけた絵本ではフレッド・バンベリー、同じく1980年代の絵本はデイヴィッド・マッキー、1990年代以降はR・W・アレイという風に変遷している(アイヴァ・ウッドが4コマ漫画を描くなど、シリーズに関与している画家は他にもいる)。
パディントンだけで物足りなくなってしまった人は、ボンドが1980年代から現在まで書き続けている、〈パンプルムース氏〉シリーズに手を出してみることをお勧めする(創元推理文庫)。元パリ警察庁の腕利き捜査官だったパンプルムース氏が、持ち前の舌を活かしてグルメガイドの覆面調査員となり各地で食べ歩きをするが、なぜかそのたびに事件に巻き込まれてしまう。グルメに偏った007という感じのシリーズで、動物好きの読者のために、パンプルムース氏の愛犬ポムフリットという素敵なコメディ・キャラクターも準備されている。
ただし、このお話をパディントン好きのお子さんに与えるときは、一応保護者の方が内容を確認してからにすること。なにしろパンプルムース氏は、食欲と同じくらいあっちの欲求のほうも旺盛で(パリ警視庁をクビになったのもそれが原因)、そういう素敵な場面が頻繁に出てくるからだ。大人の読者なら、パディントンと同じぐらい楽しめるんじゃないかな。