小学校で読み聞かせを始めて五年になるが、今日でそれも最後。読み聞かせ自体が今日でおしまいなので、本当のおおとりを仰せつかったことになる。
こっそり白状してしまうと、最初は「最後は泣かせよう」と思っていた。すまん。連続ドラマでもあるじゃない? コミカルタッチできて、最後だけシリアスになるというやつ。「探偵物語」とか。それでしめはぐっとこさせて、感動のフィナーレにしようとか思っていたわけだ。うー、柄にもないことを考えてすまんかった。私が悪かった。反省します。もう読む本まで決めていたのだけど、その線は放棄した。恥ずかしくなったということもあるが、いちばん大きな理由はこのたびの震災だ。
正直、動揺はある。被災地から遠く離れたこの場所でも、「なるべく遠くに逃げよう」と焦って、子供を連れて疎開しようとする親はいる。それをするなとは、教師の側からは言えないのだ。子供たちから学校を奪わないでください、と小声で呟くだけ。学校に行きたくても、授業を受けたくてもかなわない子供たちがいるのに、ほんとうにもったいないと私も思う。その動揺が広がらないように、残された人間は明るくふるまうだけだ。大人が暗い顔をしていると、子供だって心配になるじゃない?
だから今日は、明るい話、笑える話を読んでこようと思っている。読む予定の本は二冊。ぎりぎりまで悩んでいたのが岸本佐知子編訳のアンソロジー『変愛小説集』からレイ・ヴクサヴィッチ「僕らが天王星に着くころ」を読んではどうかというプランだったのだが、断念した。残念ながら、長さがちょっと収まりきらないのだ。十五分しかないからねー。
本日読む予定のうちの一冊は、フレドリック・ブラウンのショートショート『未来世界から来た男』だ。この中から「身代わり」「おしまい」の二篇を選んで読む。ああ、あれか、とピンと来た人はニヤニヤしていてください、そこで。「猫泥棒」は今の子供たちにはおもしろさがよくわからないかもしれない。○○○○○○○に初めて遭遇した世代の人たちはもっと笑ったと思うんだけどね。
そしてもう一冊は、この五年間に読んだ中でいちばんくだらなかった絵本を読むことにした。どれにしようか迷ったが、これしかない。花くまゆうさく『ムンバ星人いただきます』だ。
ひところ、いろいろな有名人が絵本を書くのがはやった。最近もあるか、なんか芸人さんが書いていた。書くなとはいわない。しかしどうしても私には違和感がある。なんで君たちは、絵本というと「いい話」にしたがるの? 感動させたがるの? いい人だなーと言われたガール(西田ひかるの発音でどうぞ)になりたガールの? 読み聞かせで泣かせようとしていたおまえが言うなという話ですか。どうもすみません。
その中で『ムンバ星人いただきます』は、数少ない例外だ。これを書いたというだけで、私は花くまゆうさくを信用している。素晴らしい漢だ。子供が何を好きで、何を胡散臭いと思うかを十分よく理解していらっしゃる。
ある日、空から何かがふってくる。
「わたしはムンバ星人。この星をちょうさしにきたムンバ。」
たまたま原っぱで昼寝をしていた「ぼく」は、ムンバ星人の調査につきあうことにする。いろいろなものを見て珍しがるムンバ星人。(なぜか)川にささぶねにのったおにぎりが流れてくるのを見て、
「あ、しってるムンバ。ももですね。なかに、ももたろうって人が、はいってるんですねムンムン」
なぜそんなことを知っている。
ムンバ星人の特技は、見たものを自分の体の一部として実体化できることだ。屋台でおいしそうなたこ焼きが焼けている。と、それを見たムンバ星人の頭が巨大なたこ焼きになってしまうのである。「ぼく」はあっけにとられながらも、その巨大たこ焼きを食べさせられてしまう。その後も次々に、ラーメン、おにぎり、スイカと次々に実体化しては、「ぼく」に食べることを強要するのだ。腹を膨らませながら必死に食いついていく「ぼく」なのだが、やがてカタストロフィが訪れる(想像してください)。するとムンバ星人は意外すぎる行動に出てしまうのだ。
子供の好きなもの(ラーメンやスイカ)を並べ、下ネタもばっちり。何より「キン肉マン」テイストで、行き当たりばったりのストーリーと、非の打ち所のない「小学生のための絵本」だ。先生は顔をしかめるかもしれないが、この本を読み、小学校六年間の美しい思い出のしめくくりとしてもらおうと心に誓ったのであった。行ってくるぜ!