北尾トロは即断即決の人である。
ライター稼業のかたわらネット古書店「杉並北尾堂」を始めたり、その流れで長野県伊奈市高遠町に『本の家』を有志と開店し本による町おこしを企画したり、雑誌業界が斜陽といわれる中で突如ミニコミ誌「レポ」を創刊してみたり、と思いついたことを次々に実行に移している。早くから裁判の傍聴を始めていて、数々の著書があることもご存じのとおり。『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)は映画化され、漫画にもなった。
こうやって書くと火の玉の如きバイタリティの持ち主のように見えるのだが、実際に会ってみると少しも頑張っている気配がなく、ごく自然体なのがおもしろい。
新刊『駅長さん! これ以上先には行けないんすか』は、そんな北尾の気負わない姿勢が文章に滲み出た、気のおけない雰囲気のルポルタージュだ。
北尾には『ぶらぶらヂンヂン古書の旅』(文春文庫)『もいちど修学旅行をしてみたいと思ったのだ』(小学館)などの旅ルポの著書があるが、本書のテーマは「終着駅」である。始点・終点のいずれかが他の路線に接続していない、行き止まりのローカル線を俗に「盲腸線」というが、その終着駅まで行ってみよう、というのが本書の趣向だ。駅まで行って、線路がどのように終わっているのかを確かめるわけである。
線路の終わり方といってもさまざまで、一様ではない。秩父鉄道三峰口駅のように、行き止まりにターンテーブルがあり、列車の方向転換を鉄道マニアに見せて観光資源としているところがあると思えば、水郡線常陸太田駅のように、単純にホームの先に車止標識が立っているだけ、というあっけない終わり方もある。それぞれの形は、駅の過去と現在を反映したものだ。したがって終わり方が呆気なければ、それはそれで見る側が想像力を働かせる余地がある。
駅が終着点となるにあたってはさまざまな理由があるはずだ。そこに北尾は関心をもち、しばしば妄想を逞しくしている。鉄道事情に詳しい人が見たら間違いがあるかもしれないが、実証を目的とした本ではないので、こだわらないほうが楽しめる。たとえば千葉県の久留里線が路線名の由来となった久留里駅で終わらず、下総亀山駅まで延伸して終わった理由を、「自分もどこかへつながって、木原線、いすみ鉄道、久留里線の千葉内陸をネットワークする鉄道御三家を形成したかったんじゃないか」などと推測してみるのは、乗客それぞれに許された遊びだろう。
私が好ましく感じたのは、旅行の終わりは淋しいものだと北尾が処々で呟いていることである。
――いきどまり鉄道の旅で訪れるのはたいてい小さな町。またくるかどうかさえわからないところも多い。わずかな滞在時間でも、そこで感じた空気や人の気配みたいなものを、そのまま持ち帰りたいと思う。
記憶はがんばれば後々まで残せるが、匂いや音や目に触れたささやかな印象は、明日お朝には溶けてなくなってしまうかもしれないのだから。
本書が本物の「鉄道マニア」向けルポルタージュになっていない理由は、ここにある。北尾が終着駅という場所に訪れることによって得た印象、空気、抱いた感情が、本書においては情報よりも優先される。終着駅を見に行った、と言いながらその終着点の写真が毎回掲載されているわけではないのが、何よりの証拠だ。自分がそこに行ったという証を残すことに、北尾はまったく熱心ではないのである(廃線ファンが探索先で見つけた枕木の痕跡を写真に収めずに帰ることがあるだろうか。絶対にないはずだ)。
鉄道本の「濃さ」はマニアにとっては堪えられない味付けだが、初心者には胸焼けの元と感じられることもある。マニアにとっては薄味かもしれない。しかし本書は、鉄道や旅が少しだけ好き、というような読者には、ほどよい口当たりで興味を満足させてくれる、楽しい嗜好物になるはずだ。おいしくて、ちょっと後引きなのである。後引きの正体こそ、旅が終わるときに誰もが感じる、あの切ない気分に他ならならない。
以下は余談。ちなみに本書には、宮坂琢磨というキャラクターを愛でる本という側面も備わっている。
宮坂琢磨、二十七歳。北尾がこの本の企画を思いついたときにたまたまそばに居合わせて、成り行きから旅の同伴者(カメラマン兼工程プランナー)となった。もちろん宮坂は、北尾同様「テツ」ではない。
「まだ発車して五分だ。しかし宮坂、気絶するように寝ていたな」
「はあ。昨日の晩、遠足気分で眠れなくて。ふたまわりも年長のトロさんと電車に乗りにいくのに浮かれてどうするって話です。せっかくの週末、世間の二七歳男子は女の子とデートしまくってるわけですよ。それなのに、ボクはなぜここに、冷静に考えてみると虚しいです」
こんな調子で、彼は旅の相棒になる。
宮坂は某誌の編集部にいたときにも北尾トロの担当をしていて、私はそのころ、別件で何度か一緒に仕事をしたことがある。その日のインタビュー相手は顔出しNGの相手で、誌面に載せるのは彼の蔵書のみという事前の約束だったのである。にもかかわらず宮坂は、取材場所にプロのカメラマン同伴で現われた。
人物撮影はなしで、本のブツ撮りだけと説明すると、みるみるカメラマン氏の表情が曇っていく。それはそうだ。お互い、忙しい身なのである。ブツ撮りだけだったら、何もわざわざ遠方の喫茶店まで機材を担いでくる必要はない。ものを借りて(貸してくれるならば)自分のスタジオで撮ったってかまわないのだ。
頬をひくつかせながらカメラマン氏は訊ねた。
「宮坂君、俺、インタビューの間どうしてようか?」
宮坂は言った。
「そうですね……。駅前の風景とかでも撮っておいてもらえますか……」
宮坂琢磨、そういう男だ。仕事の段取りはちょっと下手、でも憎めない。北尾トロが彼をどう飼いならしていくか、という点も本書の読みどころである(下手にコーヒーを与えると腹がくだる傾向がある、などと新たな秘密が次々に発見されていく)。その凸凹珍道中ぶりもなかなかに可笑しい。内田百鬼園翁の『阿房列車』のように、このコンビでぜひ旅ルポをレギュラー化してもらいたいところだ。
クスリと笑え、ほのかな旅情が味わえる。好ましい読み物である。