学生のとき一ヶ月中国に旅行したことがある。その時に持参したのが、森鷗外の著作を一冊にまとめた『ザ・鷗外』(第三書館)である。荷物を減らすため、持っていった本はそれだけ。ページをちぎって捨てながら読んだ。だから私にとって、鷗外といって思い出すのは中国の街並みである。鷗外の歴史小説を読み耽りながら眺めた、西安の城外の光景を今でもよく覚えている。鷗外は私にとって、ちょっとだけ特別な作家だ。
その鷗外のデビュー作『舞姫』は、ドイツ留学中の彼の実体験に基づく作品であることがよく知られている。鷗外こと本名森林太郎は一八八四年八月に出国し、一八八八年九月に帰国、のべ四年に及ぶ留学だった。その間彼はドイツの諸都市を巡ったが、最後に滞在した首都ベルリンがもっとも印象に残ったらしい。ドイツについて書き残した紀行文のほとんどがベルリンについてのものだ。そのベルリンで彼は若い女性と出会い、おそらくは恋愛をした。一時のアバンチュールなどではない。その女性は、林太郎の後を追って、五十日もの船旅に耐え、日本にやって来たのだ。
この女性が『舞姫』のヒロイン、エリスのモデルであったことは、早くから知られていた(私は高校の国語の時間に、教師から聞いた記憶がある)。それがどのような女性であったかは、当事者によって証言が異なり判然としない。林太郎の妹・小金井喜美子が「路頭の花」呼ばわりしたことから流布されるようになった「街娼」説と良家の子女説の二つがあり、研究者によって意見が分かれていたのである。だが一九八一年に、画期的な発見があった。中川浩一・沢護の両研究者によって、明治期の英字新聞「ジャパン・ウィークリー・メール」に掲載されていた海外航路の乗船名簿から、その女性の名前が明らかになったのだ。その名をエリーゼ・ヴィーゲルトという。
最近、相次いで二冊の『舞姫』研究本が刊行された。先に出たのが今野勉『鷗外の恋人 百二十年後の真実』(NHK出版)だ。著者はTV番組を制作するディレクターである。今野は、本書の構想も三十年近く温めたものだといい、本の刊行と同時にNHKハイビジョン特集で同題の番組も放映された(私は未見)。いわば国営放送の取材力を駆使して執筆された本であるわけで、「鷗外に取り憑かれた名ディレクターの執念が、『舞姫』の美少女の正体を突き止めた」というコピーが帯には躍っていた。当然のことながら私は即座にこの本を購入した(鷗外と漱石と子規のマニアなのです)。
そして、少なからず失望した。
この本にはいくつかの見逃せない飛躍がある。今野がエリスのモデルと見做した人物はエリーゼ・ヴィーゲルトとは別の名前なのだ。その矛盾をどうするかと期待して読んでいると、作者は「竹垣に竹立てかけたかったのは竹立てかけたかったから竹立てかけたのだ」方式の強弁をふるって、それを解決してしまう。そこで一歩引いて別の可能性を検討する、という柔軟さはなく、あくまで自説ありきなのである。これでは気持ちよく納得させてもらうことはできず、数多の類書と同じような隔靴掻痒の感を味わわされた。
やはり、エリスの真実を知ることはできないのか。鷗外が愛した人が誰なのかは、永遠の謎なのか。
そう思っていたところに。
出たのです。
六草いちか『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社)という本が。
今野本に失望していた私は、あまり期待せずに本を開いた。失礼ながら、お名前を存じ上げなかったのだが、著者はドイツ在住のライターであり、音楽や映画、トラベルガイドなどで多数の執筆歴、著作があるらしい。その六草が、ある集まりで一人のドイツ人からこういう言葉を聞かされたことからすべては始まるのである。
「オーガイというその軍医。その人の恋人は僕のおばあちゃんの踊りの先生だった人だ」
ね。がっかりするでしょう? これまで何十人もの研究者が挑戦してきたエリスのモデル探しが、そんないい加減な一言で終わるわけがない。
もちろんである。六草はその男性と再び会い、言葉の真贋を確かめようとする。ドイツには戸籍謄本が存在しないが、結婚のときに交付される結婚証明書をファイルに保存する習慣があり、子供が生まれたときにも同様の証明書をとる。その出生証明書を確認したり、エリス=エリーゼが乗ったとされる客船の乗船者名簿を入手したりしようとしたり、と史料閲覧の努力が進められるのだ。
現在の電話帳の前身にあたる、ベルリン住所帳の調査に入ったあたりで、私は完全にこの本に引き込まれた。
一次資料を求めようとする熱意が違う。他の研究者と違って『舞姫』の舞台であるドイツに居を構えていたという有利な条件はあっただろう。しかし、それだけでは説明ができないほどの熱量を六草の行動からは感じた。とにかく思い込みを排し、一次資料を求めようとする(冒頭に出てきた、おばあちゃんの云々という話はすぐに捨てられる。あくまで導入にすぎなかったのだ)。実は住所録に当たった研究者は以前にもいて、『鷗外の恋人』の今野もその写しを自著に掲載しているのだが、六草はさらにその先があった。住所帳に記載がないとわかれば、次はその地域の住民が必ず通ったはずの教会に何かがあるはずだと思いなおし、教会公文書館に足を運ぶといった具合に。エリーゼ・ヴィーゲルトの名前が記された資料に行き当たるまで、六草は最善の努力を尽くそうとする。
著者には、「路頭の花」呼ばわりされたばかりか、小金井喜美子から「人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女」と蔑まれたエリーゼを思いやる気持ちがあり、正しい形で想像力を働かせるだけの分別があった。エリーゼが背負わされた悪評を知り、「それがどれだけの痛みを伴うものか」と考えるようになった六草は「彼女の正体を見つけることによって、彼女に掛けられた不当な嫌疑を晴らしてあげられるのではないか」と考えるようになるのだ。すべてはエリーゼのため。その一念がやがて、信じられないような奇跡を生むことになる。エリーゼの実在が六草によって証明される瞬間、読者は言い知れぬ感慨を覚えるだろう。いつの間にか自分が著者と一体になり、この探索行に参加していたことに気づかされるはずだ。
鷗外ファンの中には『舞姫』の真相探しを複雑な思いで眺める人もいると思う。なにしろ『舞姫』の鷗外は最低だ。異国で女を作り、おそらくは妊娠までさせて精神を崩壊させた挙句、逃げ帰ってきてしまったわけなのだから。著者も最初はそのことが念頭にあり、『舞姫』という作品自体が好きではなかったと明かしているが、エリーゼ探しの旅によって、そうした鷗外像にも少しだけ変化が見られる。鷗外ファンこそ、終盤で六草が語る『舞姫』に関する仮説を読むべきである。きっと、『舞姫』という小説の見方も少しだけ変わります。
だいぶ長くなってしまった。最後に付け加えておきたい。『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』にはもう一つ楽しみ方があり、帝政期末から現代に至るドイツ国民の生活誌の側面があるのだ。たとえば本書では、ドイツ国民が墓地に自身を埋葬するためにはどんな手続きをしなければならないかが書かれている。また、一般的なアパートメントがどのような間取り、どのような建物構造になっているかが書かれているし、冠婚葬祭にあたってどの書類を作成するかということも本書を読めばよく判る。必ずしも森鷗外に関心がなく、『舞姫』という作品が好きではない読者でも、絶対に楽しめるはずだ。エリーゼ・ヴィーゲルトという女性の生きた痕跡を探すミステリータッチのノンフィクションである同時に、ドイツの近過去と現在を知るための、格好のガイドブックでもあるのだから。図録や建物の写真、地図なども豊富だ。
読むとベルリンを訪れ、ウンター・デン・リンデンを歩いてみたくなる。そんな魅力溢れる一冊なのである。