川田絢音という詩人の名前を知ったきっかけは、精神医学者・春日武彦のエッセイを読んだことだった。出典を示したいが、本が手元にない。おそらく『幸福論』(講談社現代新書)ではないかと思うが、あまり自信がない。春日のエッセイは精神医学に関心がない人でもおもしろいので、読んだらいいと思うよ。で、探してください。
いや、川田絢音なのである。私は詩歌の道に暗く、いや歌道が暗いから灯りを借りに来た、くらいは言いたいくらいの門外漢なのだが、この詩人の作品は無闇に好きなのである。
川田の詩に目を通すと、自分の妄想が内奥から膨らんでくるのを感じる。そうした触媒としての効果を、勝手に期待してしまいたくなる詩人なのだ。特に好きなのが、『空中楼閣 夢のノート』(書誌山田→思潮社刊『川田絢音詩集(現代詩文庫)』所収)という作品集だ。これは私が始めて買った、現代詩人の詩集である。
見た瞬間に、がん、と頭を殴られたような気分になった作品、「幼児と」
男に追いかけられていて、逃れるために幼児と関係しようとする。幼児と愛しあっているところをその男に見せつけて退散させようという考え。幼児は事態をすっかり理解してくれている。
幼児は事態をすっかり理解してくれている、の句で判るとおり、これは夢の中の光景を描いた詩である(非実在幼児)。夢の中では飛躍や混濁、語句の取り違えや視点の交換が当たり前に行われる。そもそも現実とは別の論理で成り立っている夢の世界を、現実世界の用語で表現しようとすれば生じることがやむをえない混乱だ。そうしたものを自らの言葉で表現しようとした作品が、この詩集には収められている。実際に川田が見た夢のノートなのか虚構なのはか書かれておらず知らないし、また関心がない。
夢だから当然なのだが、一篇一篇はどんなに短くても完結している。その中に一つの論理が閉じこめられているのだ。夢だからこそ成立した論理。夢から覚めた途端、地球上のどこでもないところに向けて消えてしまう論理である。それを言語で表現しようと川田はしている。したがって詩を眺めていて感じるのは、一抹の淋しさである。かつてどこかに存在し、自分が決して到達するところのできない場所への旅行記を読まされた後のような、そうした憧憬と悔恨がないまぜになった感情を味わうことになるのだ。その感情があるからこそ、妄想が膨らんでくるのだろう。
どのページを抜き出しても一篇の物語になるのだから、引用のしすぎは控えよう、本を読む人の邪魔になる。そう思っているが、それでも紹介したいという気持ちを抑えきれない。たとえばこんな詩がある。
プールには水がない。しかし、そこにコースの境界線のロープを張り、水があると仮定して泳いでみようとする。だが背後を手探りしてもロープは見あたらない。それさえあれば泳ぐこともできるのにと思っている。
「水のないプール」という題名の詩だ。私よりも現代詩、現代美術に詳しい方ならすでにお気づきだろうが、この題名のつけかたにも作者の意図を感じる。詩の内容そのままの題名というのは、二重に屈折した表現手段であるからだ。抽象画につけられた標題を見て、これは○○を描いた絵なのか、と納得したがる観客はいる。それを嫌い、絵自体を鑑賞させるために「作品No3」といった無機質な題名をつける作者がいる。「水のないプール」というそのままの題名は、そうした逆転をさらにねじったものである。そのままのものしかなく、そのままを観賞するしかない。意図がないのが意図なのである。そうした形で読者は、現前/厳然する世界に対面することを強いられる。
「石粒」
歩いていて幾重にも条の入った白い石粒を拾った。そこに、わたしの生の方向性がすべて条になって現われていて、しんとした簡潔な思いになる。
「歩いていて」から始まる動きのある文章、「生の方向性がすべて条になって」というような唐突な凝縮行為から生まれる驚き、「しんとした簡潔な思い」という表現の取り合わせの妙、すべてが驚きに満ちていて、読むたびに楽しい気持ちになる詩だ。
『空中楼閣』に収められた詩には繰り返されるモチーフがある。たびたび出てくる名前のない妹に対する、嫉妬と親愛の混じった感情がそれである。MやDといったイニシャルで示される男性との関係を描いたものもある。そしておそらくは男性の側からの裏切り、不倫の清算といったことがらを案じさせる詩も。これらの作品はとてもなまめかしく、落ち着かない気分にさせられる。フロイトを持ち出すつもりはないが、エロスは夢の大事な要素であり、それだけに頻出するのは当然といえば当然である。川田の詩はどことなくマゾヒスムを連想させるところがあり、それが落ち着かなくさせる気分の主因だ。
そしてこの詩集が好きな理由のもう一つが、あちこちからユーモラスな雰囲気が立ち上っていることである。大好きな一篇を後一回だけ引用することをお許しいただき、この稿を終える。他にも楽しい詩がたくさん入っているので、気になる人は現物に当たってほしい。
「実行力」
凍ったようにはりつめたわたしの背中にだれか男の人が手をあてがって、「実行力を大、中、小に分けると、小だ」と検べている。