北緯四十二度四十分、西経七十度三十七分。グローヴァーズ・コーナーズ――マサチューセッツ州からニューハンプシャー州へ、境界線をちょっと越えたあたりにある小さな町が舞台となる。
ソーントン・ワイルダー『わが町』が初めて上演されたのは一九三八年二月四日、ブロードウェイのヘンリー・ミラー劇場においてである。実験的な作風に否定的な評価もあったが大勢には影響がなく、ワイルダーはこの作品で二度目のピューリッツァー賞を獲得した。ブロードウェイにおいて三百三十六回の上演を記録し、その後はアマチュア劇団やレパートリー劇団によって、四〇年末までに七百九十五の町で上演された。毎晩どこかで『わが町』が上演されているという伝説ができたほどに、この三幕劇は好意的な迎えられ方をしたのである。
アメリカ合衆国の原点というべき、ニューイングランド地方の典型的な小共同体の姿を活写してみせたから? 一九二〇年代という狂乱の時代を通過した合衆国民が、古き良き祖国の姿に郷愁を見出したから? 国民の心の故郷がここにあるから?
いや、違う。その説明では、今ここ、北緯三十五度三十八分、東経百三十九度四十一分の都市でこの戯曲を手にしている読者の、胸中に湧きあがる感情を説明することは難しいはずだ。本書を読みながら私は、とにかく今日を生きよう、明日を生きようという声を聞き、見えない手のようなものに背中を押された。そう、たしかに感じた。
『わが町』が最初に上演されたとき、ユーモリストのロバート・ベンチリーは「ニューヨーカー」誌に「『代用品ばかりの』舞台が芝居と呼べるほど『劇的』であったかどうかを問題に」する劇評を書いたという(本書「あとがき」より)。この芝居には大道具、舞台装置の類は最低限しか使用されず、第二幕における結婚式、第三幕の葬式の場面では、舞台の上の役者たちをまるで記号のように扱う(動きを画一化し、誰某という個性を出すことを禁じる)演出が行われる。教会の場面では、それまで別の役割をこなしていた人物が、突如として牧師の役を務めはじめるのである。そうした省略をベンチリーは「代用品」と皮肉ってみせたのだろう。
役者の肉体がその演じている人物と一体化して見える瞬間を、『わが町』の作者は注意深く取り除いている。グローヴァーズ・コーナーズという町の風景が、書き割りや大道具によって表現されることはなく、観客は簡素な舞台を見ながらそれを想像することを求められる。それどころか、劇が始まった瞬間から舞台監督を名乗る役者が観客によく見える場所に登場し、この劇がいかなるものであるかを解説し続けるのである(幕切れには十分間の休憩を宣言しさえする)。観客は常に舞台の「額縁」を意識させられ、「これが虚構だよ」と囁く声を聴き続けることなる。そうした形で「どこか遠い町」「自分とは違う誰かが住む町」の出来事に気持ちを仮託することを拒まれるのだ。
舞台監督はむしろ儀式の主催者と呼ばれるべきで、登場人物が近い未来においてたどる運命を前倒しで観客に伝えるような悪戯もする。先ほどの牧師を演じる人物というのも彼で、若い二人を結婚させながら、彼はその結婚の末路についても熟知していることを観客に伝えるのである。こうして、過去から現在、そして未来へという行儀のいい時間の流れもかき乱される。時間の積み重ねが歴史を作るという感覚は、舞台の上から消し去られるのである。グローヴァーズ・コーナーズが誰かのものとして独占されることは絶対にない。時間の累積が意味を持たない以上、そうした特権関係をこの町と結べる者はいないからだ。そのため、誰のものでもないがゆえに誰のものでもあるという逆説的な関係が成立する。だからこそ『わが町』なのだ。
一応の時間の流れはある。第一幕は一九〇一年、第二幕は一九〇四年、第三幕は一九一三年の出来事だ(しかし、それも舞台監督によって一方的に宣言される)。その中で人々は相応に年齢を重ね、ある者は命を落とす。第三幕は葬儀の光景から開始され、死者となったある人物が過去のある一点に戻り、その一日を生き直すという出来事が描かれる。特別な日、幸せな日を選ぶというその人物に、別のある者が言うのだ。
だめだめ!――そんならせめて、ふつうの日になさいな。あんたの一生でいちばん意味がなかった日。それだって意味はありすぎるくらいだわ。
劇のクライマックスは、こうして十二歳の誕生日に戻ることになった登場人物が、勧めに従って「ふつうの日」を体験することによって訪れる。その一日は、いつもと変わらない平和に満ちたものだった。死者となった登場人物は、自分が十四年後には死者となっていること、家族が未来において迎える運命を伝えようとし、ことごとく失敗する。過去の時間を生きる人の耳には、そうした言葉は届かないのだ。人生の意味を知っている人間などこの世にはいないという事実を知らされ、死者は本来の自分の時間へと戻る。
われわれは今、この一瞬を生きるしかない。先にどんな運命が待ち構えていようと関係ない。明日目覚めたときに見るのが、希望に満ちた世界であるか、それとも哀しみと災いの光景であるか、それさえもまったく判らないのである。自分たちが「ふつうの日」をただ生きていくことしかできない存在であるということを観客に気づかせて、この劇は終わる。幕切れに現われるのは、やはり舞台監督である。
たったひとつ、この星だけが、なにかましなものになりたがって、年がら年じゅうあくせくと力みに力んでいる。あんまりひどい力みかただから、十六時間ごとに、だれもが横になるという寸法で。
懐中時計のネジを巻く。
ふん……わが町はもう十一時――では、みなさんもぐっすりと休息を。おやすみなさい。
「あんまりひどい力みかた」でも「十六時間ごとに」横になって「ぐっすりと休息を」とってみれば、明日はまた「ふつうの日」だ。いつまで待っても、特別な一日はやってこない。だが、「ふつうの日」が途切れることはないのである。大丈夫、明日も必ず来る。