日本についてのすぐれたエッセイ集だ。26の断章から成り、ひとつひとつの分量は7ページ、多くて10ページ程度である。わたしが本書をすぐれていると言うのは、西洋の視点で日本を観察しているからではなく、日本を西洋の視点から観察しているからだ。
たとえば「箸」という、食べ物についての章がある。筆者はまず、東洋の食べ物が「極小のほうへ花ひらいてゆく」ことを指摘する。日本における「望ましい胡瓜のありかた」は、「山積みにされることや太く大きくなることではなくて、切り分けられて細かく分散していくことである」のだそうだ。対して西洋の食品は、「山積みにされて、威厳をあたえられ、荘重なまでに誇張されて、なんらかの威信付けの操作をされるものである」とする。たしかにビフテキは偉そうである。
ここから話題は箸のことに移る。箸は細断されたかたちの食品にもっとも適した食器であるとし、食べ物の断片を「つまみあげる」ために存在しているのだという。「というのも食品は、持ち上げて運ぶのにちょうど必要な力よりも大きな圧迫を受けることがないからである」。これは西洋のフォークのような、「切ってつかみ取る」動作とは対極にある。箸はご飯の下にやさしくすべりこみ、ひとかけらを「移動」するだけだ。「親鳥がくちばしで餌をひな鳥にあたえる」ように。
つぎの章、「中心のない食べ物」では、箸のもつ特性から敷衍して、日本の食事様式ぜんたいについての文章がつづく。筆者は、すきやきや刺身の盛りかたに着目し、そこに「中心はみられない」という。たしかにああいった料理は、大皿のうえにおいて主役になる食材がない。たとえばビフテキ(そればっかりだが)における主役は焼かれた肉で、ほかのものには付け合わせという役割が与えられているが、日本由来の刺身やすきやきに主役はいない。筆者はその理由を、「食卓のうえでも大皿のうえでも、食べものは断片の集まりにすぎず、どの断片も、食べる順序によって優劣の序列をつけられているようには見えないからである」とする。たしかにわれわれは、たとえば居酒屋などで注文するときも、つぎに箸をのばす品を選ぶときも、ごく恣意的である。日本人にとって「食べることは、〔…〕いわば思いつきのままに、この色を選びとったりあの色を選びとったりすること」なのである。
中心のない感じ。これが、筆者がつかんだ日本のイメージだということがしだいに知れてくる。「都市の中心、空虚な中心」では、西洋の都市における中心が「つねに充実したもの」であることをまず示す。あらゆるものがそこにあり、「街の中心へ行くことは、社会の「真理」に出会うことであり、「現実」のすばらしき充実ぶりをわかちあうことである」と、西洋では考えられているとする。しかし筆者はつぎの段落で、われわれ自身もその特性によって気づくことができなかった、ある「貴重な逆説」を示してくれる。「たしかに東京にも中心はあるのだが、その中心は空虚だということである」。つまりその中心とは、皇居のことだ。「誰の関心も引くことのない場所〔…〕けっして人目にふれることのない天皇が、つまり文字どおり誰だかわからない人が住んでいる皇居〔…〕中心の低い外形は、見えないものを目に見えるようにしたかたちであり、神聖なる「無」を内に秘めている」。驚くべき発見というほかない。つづく二編の章でも、日本の都市の道路に(京都をのぞいて)名前がないこと、あらゆる地区の中心が「駅」という、本質的には通り道にすぎない空虚なものに集中していること、などが提示される。「日本では、指標はこのうえなく散文的なのである」。
こういった指摘に感心しながら頁をめくると、次の「包み」という章が笑わせてくれる。日本のさまざまなものが、西欧人にとって「小さく見えてしまう」のは、それらが「縁どられている」からだという話を枕にして、われわれがいまでも盛んにする「贈り物」についての文章がある。すこし長くなるが、まとめて引用したい。
「箱、木、紙、リボンなどからなる包装一式は、〔…〕運ばれるものを一時的に飾っているのではない。包装そのものが目的となっている。〔…〕包みは、まさに技術の完璧さゆえに、幾重にもなされていることが多い(包装をひらくのにひどく時間がかかる)ので、なかに入っている物――つまらない物であることがしばしばだが――を見るのを遅らせてしまう。というのも、品物のつまらなさと不釣り合いに包装が豪華であるというのが、まさに日本の包みの特質だからである。たとえば、砂糖菓子ひとつ、ほんのすこしの羊羹、俗悪な「みやげもの」(残念なことに日本もそんなものを作ったりできる)などが、宝石とおなじくらい豪華に包装されている。ようするに、贈られる物は中身ではなく、その箱であるかのようだ。」
こんな経験はないだろうか――恋人にプレゼントをと、砂粒のように「小さな」宝石のはめ込まれたアクセサリに決めたとき。その瞬間までのんびりとしていた店員が、とつぜん大慌てでカウンターの奥に引っ込んで、なにをしているのかとのぞき込むと、目にもとまらぬ早さでラッピングをしている。結果、贈り物そのものより数百倍は大きい包みができあがる。買うだけならまだいい、いざ手渡す段になって、「ちょっと開けてみてもいい?」なんて言われたら最後、相手が包みを解くのに日が暮れるまで待つはめになる――。筆者が日本でそういった経験をしたかどうかはわからないが、「包装そのものが目的となっている」のは、現代でもかわらない特質といえる。
祖国を離れて、はじめて判ることもある。知らない言葉を話す人々がいて、文化もまるきり違う。新しいものを見聞きして、新鮮な体験をする。それもいいかもしれない。筆者もたしかに、彼にとって新しい場所での体験を書いた。しかし本書には、自国との違いを検証する箇所が多く見られる。その理由は、筆者がたえず西洋を振りかえっていたからだ。なぜその国が自分にとって新しいのだろうと、考え続けていたからだ。新しいことを、新しいことだからという理由だけで信奉しない態度が、本書をただの見聞録ではなく、あたらしい視点を与える本にしている。日本に住む読者は、頁から面を上げたとき、まるで外国にいるかのような気持ちになれるだろう。旅行の代わりに、この本を読んでから街を歩くといい。いつもの風景がちがったふうに見えるはずだ。