ある人物の足跡を追っていくと、思いもよらなかった意外な真実が見えてくる。佐藤正午の手口はわかっているのに、やられてしまうのですよ、どうしても。本書もまた、いかにも、な一作。
語り手が、〈私の妻〉と呼ぶ古川ミチルという名の女の身の上を述懐し始めるところから物語は始まる。ミチルは23歳まで、新幹線で1時間ほどの海に面した町で平凡に暮らしていたと語り手は説明するのだが、その淡々とした口調にどこか不穏な空気がにじむ。これから打ち明けられる“妻”の旅路が安寧なものではないことを予感させる。
ミチルは、地方都市の老舗書店の書店員で、地元に恋人もいたという、どこにでもいる普通の女性だ。しかし、23歳当時は東京から出張に来ていた豊島一樹との不倫に踏み出したところで、いわば小さな秘密も抱えていた。少し熱に浮かされたような気分だったミチルは、就業時間中に歯医者に行くという口実で中抜けし、その実、東京へ戻る豊島を見送りにいく算段を立てる。豊島とのちょっとした離れがたさを感じたミチルは、職場に連絡もせず、豊島と一緒に空港へ。そして、魔が差したというべきか、豊島に付いて、着の身着のままで東京へ出てきてしまうのだ。
読者は不安になるが、まだそれほど深刻ではない。ほんの1日、いや数日の向こう見ずな冒険。田舎に帰って謝れば、どうにか修復できるくらいの過ちだ。
しかし、ミチルの思考は小さな反発心に煽られて、次々と直情的な行動に出てしまう。「ここで踏みとどまればいいのに」と行く末を案じる読者を、ミチルは裏切り続ける。
さらに、ミチルを追い詰めるものがある。田舎から出奔した日、ミチルは書店の女性上司ふたりと職場でいちばんの仲良しの初山に、外出ついでに宝くじを買うよう頼まれていた。ぼんやりした頭で買ったその宝くじが高額当選券だったとわかり、ミチルをさらに孤立させていくのだ。
不倫したこと。職場へ不義理をしたこと。宝くじを買ったこと。幼なじみの竹井のマンションに居候させてもらいつつ、東京で暮らし始めたこと。一つ一つは誰の身にも起こりうる小さな出来事なのに、それが人の運命をこれほど翻弄するのかとハラハラさせられるし、ひとりの平凡な女性の心情がこれほどスリリングな物語になるのかと驚かされる。
一歩間違えば、ご都合主義として片付けられてしまいそうなストーリー。にもかかわらず、ミチルの真意や豊島の本性、竹井の意外な素顔などを巧妙に暴き、隠す、そのバランスで、にわかに現実味を帯びた話に転換させてしまうのだから、これはもう語りの妙味としか言いようがない。
ところで、おそらく読者の頭の片隅には、読み始めた冒頭から、ある疑問が浮かんでいるはずだ。その疑問はページが進むにつれ大きくなり、ミチルの運命を知りたいと思うのと同じくらい気になって仕方がなくなる。そう、語り手はいったい誰に向かって、何のために、話をしているのだろう、と。
身の上話。このそっけないタイトルに、予想外のカタルシスが隠されている。
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