デュトゥールトゥル。この奇妙にして、忘れがたい名を持つ男は、「サミュエル・ベケットに見いだされ、ミラン・クンデラが絶賛する作家」だと本の帯にはある。初の邦訳作品となった本書を読めば、この惹句が誇大広告でないことを知るだろう。
あえて結論をさきに言えば、ほんとうに救いのない物語だ。ブラックな後味を好まない読者にはお勧めしない。“感動”を物語に求める向きにも、お勧めしない。
しかしながら、現代社会の、ネガティヴな側面を肥大化させて描き出すという意味で、すぐれた寓話になっていることは間違いない。つまり、小説としては傑作である。
舞台は、どことも名指しされない先進国で(通貨はユーロダラー)、喫煙規制と子供の人権保護が徹底されている。煙草の生産や喫煙自体は禁止されていないが、なにしろ屋内はセンサーが張り巡らされているため、役所勤めの主人公「僕」などは、トイレの個室内の窓枠をドライバーでいちいち外し、隠れ煙草を味わう毎日だ。アリバイ工作のため、音を立ててベルトを外し、ズボンを床に落とす細工まで毎度行なっている。
その役所では、なぜか子供たちがわが物顔で走り回っている。市長の掲げる「母と子の尊重」の理念により、空きスペースのいたるところに託児所ができたのがその理由。子供は子供であるというだけですべての市民がいつくしむべき対象とされ、結果、家庭でもバスでもどこででも、甘やかされきっている。大人、なかでも老人こそをもっと尊重せよと意見する「僕」は、子供やその親世代から、人でなしのように見られる始末だ。
そんなある日、いつものように煙草を吸っていた「僕」の個室のドアを、女児が誤って開けてしまう。焦る「僕」。それでも問われるのは、せいぜい喫煙違反のはずが、ふたをあければ女児への猥褻の罪となり……。
こうした「僕」のパートと並列的に描かれるのは、死刑執行直前の最後の希望として、一服を望んだ囚人の運命である。条文で認められた権利のささやかな主張が、完全禁煙を謳う刑務所に混乱を引き起こし、世論をまきこみ、やがてドラスティックな変化を引き起こす。「で、俺はやれんのかな、最後の一服を?」
死刑執行前夜の囚人と、煙草が健康に与える害がオーバーラップして語られるとは、これがシニカルでなくしてなんだろうか。
死刑囚と、エリート役人――まったく無関係だったふたりの人生をクロスさせるのは、一本の煙草であり、煙のようにふたりをとりまくのは、煙草会社の利害と、功名心にみちた無能な弁護士、そして大衆の煽動されやすい心理である。
「健康志向」や「子供の人権保護」といった、耳触りのいい、そして理念的にはまったく正しいスローガンのもと、規制が強化され、大衆が煽動されていく現代社会のあやうさこそ、この小説は描き出していく。日本でも、前世紀までは会社の自分のデスクで煙草を吸うことは可能であり、喫茶店はまさに煙草を吸う憩いの場所だった。(それがいいか悪いかはべつとして)教師による子供への体罰も容認されていた。しかし現在はすっかり様変わりしている。政権もあっけなく変わった。
ようするに、多数意見に流され熱狂しやすい国民性をもつわが国が、この小説の舞台であってもなんら不思議ではないのである。そう思うと、本書の読後感はよりいっそうおそろしくなる。
主人公の、えん罪との戦いが、「僕」という一人称から「彼は」と三人称で描かれるようになるまでに、物語は思いもかけないもうひとつの展開を迎える。ここからの加速度を増す展開には、あっけにとられる読者も少なくないだろう。
頭のいい作家が、頭のよさをぞんぶんに発揮して、きれいに構築した小説。
煙草の愛好家にはけっしてお勧めしないということも、最後に付け加えておこう。
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