前作『土曜日』で、小説的想像力を持たない脳神経外科医の一日を描き出すことで、「不意打ちの暴力」の恐怖から逃れられない、2001年以降の現代を生きる人々の心理をむき出しにしたマキューアン。
この『土曜日』とも、複雑な人間関係とともに壮大な悲恋の物語が展開された『贖罪』ともまた異なって、彼が新作『初夜』で試みたのは、文字通り初夜を迎えた若き二人のようすを、解剖医さながらの冷徹な視点で映し出していくことだった。
ときは、1962年。ところは、イギリス・オクスフォードから車で少し走った海岸沿いのホテル。学者を目指しつつも妻の父の会社へ入ることになりそうなエドワードと、裕福な家庭で育った無名バイオリニストのフローレンスは、今日結婚式を終えたばかりだ。瀟洒なホテルでの、二人きりの夕食。いまやデザートのメロンも食べてしまった。窓からは「潮気のある酸素とひらけた空間の匂い」を持つ風が二人を戸外へと誘い、いっぽう、隣室には「純白で、しわひとつなくピンと張り、人の手で整えたとは思えない」ベッドカバーの掛かった四柱式のベッドがある。
もはや行儀悪く、手に手をとって、どちらに向かって走っていこうとも、幸せの絶頂にいるであろう二人の勝手だったが、「何百という暗黙の規則が依然としてエドワードとフローレンスを縛っていた」。なぜなら、「まだ時代がそれを許さなかった」から。
1962年に若者として生きる二人にとっては、ウッドストックに象徴されるロックの盛り上がりも、ヒッピー文化と不可分の“性の解放”も、まだ訪れぬ未来である。およそ一年の交際期間、フローレンスの邸宅に招かれてともに過ごすことはあったけれど、二人がベッドをともにするのは、正真正銘、今日がはじめてなのだ。とりわけエドワードが、期待と興奮と、なにかをしくじることへの恐れから、心ここにあらずの状態なのはむベなるかな。しかし、フローレンスが頑なにそれを拒んできたのは、時代や家柄が要求する貞操観念によるものだけではなかった。事情があったのだ。
これまで彼女が、親はもちろん、姉妹にも言えなかったこと。それは「肉体を絡み合わせることに対して彼女の全存在が反撥し」てしまうという強くはげしい実感である。むしろ「心の平静や根本的な幸福感が侵されるような気が」するほどまでに強烈な――。
しかし心からエドワードを愛し、尊敬し、喜ばせたいと思い(手引書!で研究もし)、彼の生涯の伴侶でいたいと望んだフローレンスを、誰が非難することができるのか。
この、高まる期待と不安、未知のものへの畏れと興奮、官能という理性を超えた感情を前にふるえる二つの肉体と精神を、マキューアンはこれでもかと言わんばかりの繊細な筆致で、つまびらかにしていく。あわせて、二人の生い立ちや性格、思い描く未来像もしだいに読者にも了解される格好だ。
そして、不意に訪れる、意外なる結末とは……。
不慣れな二人をからかうような調子ではじまった軽やかな物語が、青春という一時期の残酷さを浮かび上がらせながら、そのあともつづく何十年という長い「人生」の考察となっている点がすばらしい。本書はたしかに『贖罪』のような大掛かりな構成は持たないが、読後の余韻と深い味わいという意味では、大長編のそれとなにもかわらない。
今年は、長篇作家であるカズオ・イシグロの短篇集『夜想曲集』が邦訳された年でもあったが、「軽やかさ」と「余韻」という側面から、この二作を読み比べてみるのも一興だろう。冷徹な視点をくずさないマキューアンらしさを堪能しつつ、なるほど「冷徹」は「冷酷」とは違って、人間という愚かしい存在への「愛」が根底に流れているのだと知る、本書。
文句なしの、☆☆☆☆☆で。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
---|---|
おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |
イアン・マキューアン『土曜日』の書評も収めています。ぜひお楽しみください。
『土曜日』 レビュワー/江南亜美子 書評を読む