まずは、表紙の装画を、帯部分も外してとくとご覧あれ。横たわった裸婦が、天使の持つ鏡に映る自分の顔を覗き込んでいるという、どうにも「自己愛」という言葉が浮かんでくる絵画が90度傾けられ、本を包んでいる。ベラスケスの『鏡のヴィーナス』。
絵画のタイトルと、彼女の息子であるキューピッドが描かれているというヒントがなければ、この女性が愛と美の女神を意味するヴィーナスとは思いつかないかもしれない。それほどに、女性のしどけなくも何かに焦がれている姿からは、作者とのただならぬ関係性が透けて見えるようだ。
そんな『鏡のヴィーナス』の絵葉書とともに、「あなたはこの絵以上に美しく、大切で、愛しい存在です。どんな女神より崇拝されるべきです」とのメッセージを受け取った女性がいた。北欧の小さな町ドットで、ティボ・クロビッチ町長に仕えている秘書のアガーテである。彼女は粗野でアル中で彼女のことをまったく顧みないストパックと不幸な結婚生活を送る人妻だったが、ラブレターの差出人は、善良で快活で笑顔のステキな町長その人である。つまり、町長は人妻アガーテに恋をしてしまったのだ。しかしその様子は、純情でまるで中学生のよう。「善良で恋にやつれたクロビッチ町長は、オーバーシューズを履いた秘書の足音が聞こえると執務室の絨毯の上に身を投げ出すように腹這いになり、ドアの下の隙間に顔を押し付け、ミセス・ストパックがかわいい足の指をもぞもぞさせながらサンダルに履き替える様子を覗き見る」。
アガーテもまた、二人でランチをとるようになり、会話がほうっておいても弾み出すにつれ、この町長との幸せな暮らしに想いを馳せるようになる。駆け引きなしの、まっすぐな気持ちを受け取ることの喜び。しかし町長の純情ぶり、善良ぶり、優柔不断ぶりによって、二人の仲は思わぬ方向へと進むことになるのだが――。
「鏡のヴィーナス」より美しいと称されたアガーテは、本当に自分の顔ばかり覗き込んでいる女性だったかといえば、おそらくそうではない。相手の幸せも自分の幸せと同等に尊びながら、ごくささやかな幸福のかたちを望んだにすぎないのだが、運命の力によってなにかがズレていくことを誰も止めることができない。
こうした、アキ・カウリスマキが映画化したならどれほど味わい深いだろうという前半から中盤までの展開から一転、残りの部分にはマジック・リアリズム的な不可思議な要素が加えられる。町のカフェを営むママ・セザールの呪文……。小説全体の語り手が、ドットの町を1200年以上守り続けている守護聖人ヴァルプルニアであるという点が、ここから生きてくるのだ。町長は果たして、この一世一代の恋をものにすることができるのか?
帯には、「ジョン・アーヴィングさながらの、新しい物語作家の誕生」とあるが、たしかにユーモアのセンスはアーヴィングを彷彿とさせるものがある。たとえば、町長が自分の気持に気づく瞬間はこう描かれる。
【まさにその瞬間から、これまで女性を愛した経験のなかったティボ・クロビッチが、疑う余地もなく、アガーテ・ストパックを愛しているということを自覚するようになった。たとえば象が自分の家のキッチンに入り込んできたら、過去に象を見たことがあるからということではなく、ここまで大きくて灰色でしわしわなものは象以外にないという理由からそうと分かるのと同じだ。だから、象と同じぐらい明白に、間違いなくこれは愛だった。】
くすくす可笑しくて、やがて哀しい人間劇場。このデビュー小説で、スコットランドにおける新人文学賞のようなものを受賞した著者の、続編などもまた待ち遠しい。というわけで、☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
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これは困った | ☆ |