写真家としての長島有里枝の経歴は、じつに輝かしい。1973年生まれの彼女は、若干20歳にして自らの家族のヌードを撮ったシリーズで写真家デビューし、いわゆる「ガーリーフォト」の担い手となる。アメリカでの留学を経て、「PASTIME PARADISE」で木村伊兵衛賞を受賞、見知らぬ他人同士をまるで写真館で撮ったような家族写真風の一枚に収めてしまう「Family Portrait」や、夫となった男性をただ一人、被写体として写しつづけた「not six」などでも、国内外から高い評価を受けた。
彼女の写真は饒舌である。言葉を持たないはずの身体が、顔が、表情が、こちらになにかを語りかけてくるような写真の数々。きれいにまとまりすぎないナマっぽさが、饒舌という印象を生みだすのかもしれない。
そんな彼女が、今回はじめてエッセイ集を刊行した。彼女自身がひじょうによい文章家であることを示す一冊となっている。
テーマは、「家族」。
彼女の写真をみるものにとって、長島有里枝と「家族」という組み合わせはあまりに親しみ深いものではあるが、ここでは文章によってそれが変奏されている。
中学三年のときに亡くした、母方のおばあさんの記憶。マイルドセブンを吸い、髪をセットし、くるぶしに“座りだこ”を持つ祖母がこちらに見せていた「背中の記憶」を取り戻したくて、長島はカメラのシャッターを切りつづけるという。
運転中の父親が、シフトスティックを動かすたびに変わっていく無毛の腕の筋肉のかたち。中二と小五のとき、姉と弟としてはじめてサシで向かい合い、腹を割って話をした日の部屋に射しこんできた夕方の光。家族の中で毛色が違うと思われてきた母の弟が、暗い和室で流した一筋の涙……。
長島は、それぞれのシーンを一枚の写真のように切り取っては、そのときの時間の流れや物事の因果関係をゆっくりと掘り起こしていく。
記憶自体が、もはや無意識によってどこまで捏造=変形されたものかわからないということを自覚しながら、「語る現在」に想起されたディテールと、その感情を取りこぼさないようにつむぐこと。
【突然、隣に座るおとうとがわっと泣き出して、おかあさんしなないでと、わたしが抱いたのと同じ不安を口にした。二人揃って同じことを思うなんて、本当に母は死ぬのではないか、という幼稚な妄想がわたしを叩きのめす。こらえていた不安が涙になって溢れ出し、姉弟は並んで泣いた。母は驚いていた。そしてすぐに子どもを安心させるときの笑顔になって、だいじょうぶ、おかあさんが死ぬわけないじゃない、絶対に死なないし、おかあさんが今までに嘘ついたことないでしょうと言った。そしてわたしたちを片側にひとりずつ、ぎゅっと抱きしめた。(「やさしい傷あと」)】
彼女の最も私的な家族史が、どこか普遍性を帯びた、あらゆる人の家族史となりえている点に、読者はきっとおどろくだろう。そして、自分の家族のことを思い、すこししみじみとするだろう。本書には、「共感」のマジックが施されている。
「ぐっとくる」度もふくめて、☆☆☆☆で。
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