『月桃夜』は、先ほどの『増大派に告ぐ』と同時に、第12回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した。両作の肌触りは全く異なる。『増大派に告ぐ』じゃシビアで黒いリアリスティックの小説だったが、『月桃夜』は馥郁たる余情と美しい情景に彩られた神秘的な作品である。しかしテーマがどこかで通底しているように思うのは、気のせいだろうか?
奄美大島から、若い女・茉莉香(まりか)が自殺同然にカヤックで海に漕ぎ出る。彼女はそこで話す鷲と出会う。どうやら彼女からは生気が抜けており、彼(鷲のこと)のような存在とも会話できるようになったらしい。そしてカヤックに止まる鷲。どうやらこの鳥は、島に降り立つことができず、何百年もずっと空を飛んでいたらしい。茉莉香は、なぜそんなことをしているのかと問う。すると鷲は、自分はこの世の終わりを待っているからだと告げて、江戸時代の奄美にいた義兄妹の悲恋を語り始めた……。
以上のように、序盤の時点でかなり幻想的である。
一方、鷲が語ったとされる昔の奄美大島での義兄妹の話でも、山の神や悪神が登場するなど、ファンタジー色は豊かだ。しかしそれ以上に、薩摩藩の琉球侵攻により従来の社会秩序が動揺した奄美大島を舞台に、虐げられた島民の生活がシリアスに描かれる。
本来は他人同士だが義理の兄妹として生きて行くことを神に誓った少年フィエクサと少女サネン。しかし彼らは二人とも島の最下層階級ヤンチュに属し、来る日も来る日もサトウキビを栽培する自由のない生活を送っていた。やがて二人が年頃へと成長した頃、島に薩摩藩から新任の監視役(附役)・正木がやって来る。
このパートでは、義理とはいえ兄妹間の、禁断の恋が語られる。しかしそれ以上に印象的なのが囲碁である。フィエクサは少年時代からアジャという老人に囲碁の手ほどきを受けて、腕をめきめきと上げていた。それだけなら、純朴な青少年の微笑ましいレクリエーションに過ぎないが、次第にフィエクサは囲碁に趣味というレベルを遥かに超えて打ち込むようになる。要するに、囲碁にすっかり魅入られてしまうのだ。やがて、奄美大島を飛び出して江戸に行き、当代一の名手と勝負したいという野望を抱くまでになる。そしてそれは、師アジャの想いとも密接にリンクしている。アジャは以前は裕福だったが、囲碁に入れ込み家業を疎かにした結果、没落してしまったのである。老いさらばえ何もかも失った彼には、しかしただ一つ、囲碁だけが残された。
親切な好々爺に見えるアジャは、実は囲碁に対する妄執を抱えており、ある時それが一気に噴出して、フィエクサと読者を驚かせることになる。そしてアジャの妄執はフィエクサにも伝染し、そのせいでフィエクサとサネンは悲劇に見舞われるのである。ここら辺、人間の救いがたき性分と哀しい運命を感じさせて、とても遣る瀬無い。
……という話を語っている鷲が、実はフィエクサのなれの果てではないか、ということが次第にわかってくる。そして、茉莉香がなぜ自殺同然にカヤックで海に漕ぎ出たかの理由も、次第に見えて来るのである。
悲劇は身分制度華やかりし「昔」の専売特許ではない。現代でも、人間の業は昔と同様、人に哀しみと苦しみをもたらす。それが、非常に洗練された潤いのある文章で切々と綴られていく。これみよがしにお涙頂戴をやらないのも素晴らしい。
フィエクサとサネンには、救いがもたらされる。むろんハッピーエンドではないが、遥か彼方に仄かな希望が見えるのだ。だからこそ鷲は飛び続け、この世の終わりを見届けねばならないのである。では茉莉香の方は……? それは本書を読んでのお楽しみと言っておこう。
『SOSの猿』に『増大派に告ぐ』と、妄想の話に連続して接した後に『月桃夜』を読むと、これまた妄想の話かと解釈してしまいそうになる。事実、本書は死ぬために海に漕ぎ出た女が、体力の限界に至って喋る鷲の幻覚を見ただけ、と解釈しても成立する。鷲の話と女本人の悩みが微妙にリンクしていることも、なかなかに示唆的である。
だがまあそれは私個人の(それこそ)妄想。読者諸氏は、人間の業とままならぬ生、そして希望をも見据えた、この美しくて切ない物語をたっぷり堪能して欲しい。評価は☆☆☆☆。
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