「わからないけど面白い、面白いけどわからない」がファンの間でさえスローガンのように叫ばれる著者。人を煙に巻く円城節は何一つ変わっていないけれど、SF的過ぎて意味不明とか、内容が衒学的すぎて難解と言われた『Self-Reference ENGINE』や『Boy's Surface』よりは、六畳一間や、炊飯器といった日本的な家電が出てくるだけでも、本書は相当に身近な感じがするかも。
本書は、「二」で始まる章がいきなり来る。なぜ「二」なのか。その数字の横には小さな「一」という数字があり、下段の注釈欄に説明を譲るが、そこではまた〈*Ⅰ〉や〈*2〉(ここでも〈*1〉はない)といった枝分かれしていく注にそれぞれ、博覧強記で人を喰ったような話が載っているだけである。
〈(略)何故「一」ではなく「二」であるのか。これは別に「二」ではないというのがその答えだが、解説は後の注に繰り延べられる。〉
注釈には、フランスの詩人にして文学実験集団ウリポの一員であるジャック・ルーボーの話や、論理学上のパラドックスの一例が引用されており、文理双方の衒学世界がちらほら紹介される。
こうして延々、一応メインと呼ぶしかない荒唐無稽なストーリーと、途切れない世迷い言や戯れ言を記した注釈が、全編、本文六:注釈四くらいの割合で、進行していく。
もっとも、「二」は、第一章、第二章というのではなく、ほぼ真ん中くらいで「曰」という章が始まることからも、意味のある見出しであることは明白。だが、そのふたつはどう呼応するのか、実は回答が示されている注四二や六二を読んでも、評者にはいまだよく理解できていない。実際、これから初読されるとしても、ここを先に読んだりしないほうが楽しめると思われる。
戻って、「二」はどういう話かと言えば、灰が降る男とその妻と、彼らを知る〈僕〉の物語である。末高という〈裡には灰が降〉っていて困っているという友人が〈僕〉を訪ねてくる。しかし〈僕〉の住む六畳一間もゆっくりとゴミに占拠されつつある。末高に、「泊められないのはわかっているから、安ホテルを紹介し、嫁を頼む」と詰め寄られ、〈僕〉は動物園で末高と会う。〈僕〉は末高の妻を、緑色に光る足跡を残す性質があるので〈緑〉というあだ名で呼んでいるが、彼女を見つけたのはゴミ捨て場の山の上である。そんな人物を嫁にする変わり者の末高は、動物園で分かれたきり消息がわからなくなり、〈緑〉もまた消えてしまった。〈僕〉はその後、五年の歳月を掛けて雑多なもので部屋を埋め尽くした。
「曰」の章では、灰に困っているのは〈僕〉のほうだ。空間を灰に埋め尽くされて、いまや人型をした穴となった〈僕〉は、自分の境界を捉える自信がなく、穴や灰について、あるいは自身の大きさや時間の流れを把握できない不安について、思考を続けるばかりである。
しまいには、〈僕〉に殺人者の汚名を着せようとする灰のささやきが耳から流れ込んできて、いよいよ物語が見えなくなってくる。そう感じた矢先、穴の形をした〈僕〉の頭に、再び末高と名乗る、今度は少年になった彼が現れ、洪水を予言する。
灰という、もの悲しく寂しげな物体、文学作品の中でもしばしばペシミスティックでだからこそやさしいモチーフとして用いられるそれは、本書の中ではむしろ、気づかぬうちに少しずつ人間や世界を変質させてしまう重苦しい何かの象徴として描かれている。しかし、灰に埋まり、すべてがどうしようもないことに見えるそのときにも、〈僕〉は立ち上がり、脱出のための和船を造ろうと立ち上がる。あちらこちらに社会病理的なモチーフも見え隠れし、その共闘を促す書というニュアンスも感じるのである。
それが誤読に過ぎるかも知れないが、本書には大真面目に哲学的思弁がひろがる灰の平原があり、思いがけないところに、苦笑哄笑失笑の小さな地雷が埋まっている。それを楽しめれば十分。
ちなみに、タイトルの『烏有此譚(うゆうしたん)』については、注四三に詳しい。ここは、読むと若干脱力できるので、むしろ先にわかると、肩の力を抜いて本書を楽しめるかも知れない。
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