正直、こんなに読みやすいというか、読者を選ばず共感を得そうな長野まゆみは初めてだ。学生寮になっている不思議な洋館で暮らすことになった17歳の少年を軸にしたストーリーで、時空を越えもしなければ、異界と交わることもない。しかし、少年や海、雨、鳥、植物、硝子、料理等々、長野ワールドを支えるモチーフは過不足なく投入されており、この上なく著者らしい世界を形づくっている。
で、何が違うのかと言えば、体温ではないかと思う。初期から続く、幻想的で無機質で透明感のある独特の世界観は、それはそれでとても美しい。だがそうした小宇宙とは違う、触れることさえできそうな確かな温もりが、本書の登場人物たちからは伝わってくるのだ。
大学進学のために部屋さがしに上京してきた主人公の鳥貝。3月生まれなので高校を卒業したいまもまだ17歳だが、年齢以上に少年らしさが抜けきらないままなのが印象的だ。
一風変わった学生寮を紹介され、入居のための面接に出向くが、その過程で出会う人物は、純真無垢な彼には太刀打ちできそうもない〈おとな〉ばかりだった。
寮長だといって面接した多飛本(たびもと)は、大人の所作が身についているが、子どもをからかうのも好きらしい。寮を紹介してくれた安羅(やすら)は、少し軽薄だが心を抱きしめるのがうまい人物。鳥貝からすれば、白熊(はぐま)はもっとも親切でつきあいやすく、時屋(ときや)には、最初に声をかけてくれたことに感謝はあれどその結果がこの寮なのだから人が悪いなあとも思っているだろう。そして、終始、鳥貝に突っかかってくる百合子(ゆりこ)は、その本心がつかめない。
すぐさま鳥貝は、この寮に住むことになるよう仕組まれていたと気づくが、その理由は謎のままだ。また、百合子の言動も。それが物語を牽引する力にもなるが、理由が知りたいというより、この不思議な寮生活そのものの魅力に、読者も魅了されてしまうのである。
鳥貝は、料理人として腕を振るうのも入居の条件だ。食券を持って訪ねてきた客人にお手製のハンバーグを食べさせて奇妙な会話を交わすシーン。めずらしい、グラタン皿を使ったカロリーオフのオムレツにも、あるエピソードが隠されている。彼の好物であるあんずをまるごとくるんだパイや、白熊が焼く自家製パンなど、おいしそうな描写がそこここに差し挟まれている。
ほんの短期間のうちに、鳥貝はみるみる寮生活に居心地のよさを覚えていく。しかし、そこから微かな記憶が少しずつ掘り起こされ、複雑な過去へと誘われていくことになる。
鳥貝は、常に自分の未熟さを意識している。彼の目には、年もそう違わない寮生たちの如才なさや大人びた落ち着きは感嘆すべきものとして、自分の服装や振る舞いはことさら子どもじみたものとして、映った。大人になりたいという焦燥は、むしろ尊くまぶしいくらいなのだが、それが恋や性や自立といった、さまざまな目覚めへの入り口へと続くことを示している。
しかし、未来へ向かう前に、彼には済ませておかなくてはいけないことがある。感情を取り戻すことだ。鳥貝には人の機微が読めないという癖があるのだが、それは単に彼が子どもだからではない。なるべく心を揺り動かされない、そうせざるを得なかったもう一つ秘密があったのだ。
実はこの物語は、寮生活とはまったく別の、幼い少年の小さな冒険で幕を開ける。これが最高にいい。子どものころ、ほんものの海を見たことがなかった彼は、海に行こうと思い立つ。気づくと、大人の道づれがいて、一緒に海を目指している。男が見せてくれた数々の手品、アプリコットのお菓子、大好きなひつじのアップリケ、白いハンカチ、少し年上の男の子……。そのエピソードがのちに大きな意味を持っていたことがわかったとき、とても幸福な、「読んで良かった」と思う気持ちが、広がっていく。
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