2010年最初の書評は、前田塁『紙の本が亡びるとき?』について書こうと思う。これは、決定的に重要な本である。作家、編集者、ライター、デザイナー、書店員、取次や流通関係者、図書館員、そしてグーグルの社員とか、とにかく「本」に少しでも関係のある人はみんなこの本を読むべきだ。2009年は、奇妙な(?)売れ行きを見せた水村美苗『日本語が亡びるとき』(初版発行は2008年10月31日)の余熱の中にあり、むろん、『紙の本が亡びるとき?』は、そのタイトルから明らかなように『日本語が……』を十二分に意識し、ある意味それへの応答でもあるような本になっている。
『紙の本が亡びるとき?』の著者は、「なんだかんだ言って、紙の本が無くなることはないよ」といった根拠の薄い楽天主義や、今一度、紙の本が持つメディアとしてのアドバンテージを再検証するような態度からは、いささか離れた場所に身を置いている。しかし市場原理主義者のように、「紙の書籍が失われた二十年後」に向けて、誰よりも早く対応できるように手を打とうというような態度とも無縁である。基本的には、失われつつある紙の本の側に軸足を置く人でありながら、不可避的な変化に対するニヒリズムも、諦念も、傍観もそこにはない。その態度はまた、安易に「闘争」などと呼ぶのも憚られるような何か、であると思う。
【一冊の書物が提示できる「全体」など、その文字量からいってもむろんわずかなものに過ぎない。しかし読書という習慣――「一冊の本」という閉じられた空間を、冒頭から結末にむけて読み進む運動――は、書き込まれた無数の事柄を、「或る固有の「全体」」という物語(フィクション)として、ひとつに構成してきたのだった。】
第2章「知の臨界時計(Doomsday Clock)――あらゆるものをデータ化しようとする欲望は私たちをどこに運ぶのか」からの引用である。この第2章は本書のいわば中核であり、この50ページ部分だけでも、定価1,900円を投じる価値がある。著者は、私たちの知は「線型的」なものであり、むろんそれが「仮構」されたものであって、たいした規模のものでないにしても、あくまで「そこに固有の全体性がある」という理解の仕方で育ってきたものだという。
こうした「知」に対し、流動化したネットワーク空間にあらわれる「知識」とは「全体」に対する「部分」であることをもはや止めてしまった存在である。そこには、より上位の階層という概念が無いから、ひたすらその「知識」は断片化し、そう、まるで「噂」のような様相を呈してくるのだ。
【「噂」はしばしば真偽が問題とされる。真実であるか嘘であるか、どこまでが真実でどれだけが嘘なのか……しかし「嘘」の本質は、真偽そのものというよりも、それが断片化していることにある。(中略)「正規」のルールがなんであるか、噂自体の受益者が誰なのか、そのような上位階層としての「全体」と綜合されることではじめて、「真偽」の意味が生じるのだ。けれども人々の興味に基き消費される「噂」は、そうした綜合とは無縁に、「噂する主体」の要求に則って流布されてゆく。】
【そのことは、ネットワーク上の情報が、その主観的なあるいは部分的な真偽とは無関係に、どれも多かれ少なかれ「噂話」化したということを、意味している。】
「知」が「知識」になり、「全体」と「部分」の階層が無くなってすべてが断片化=噂話化してしまってなぜいけないのか? ここから先の精妙な論考の進み方は、とてもここで簡単に要約などできないが、前田塁氏はこの問題を、人が「他者と出会うこと」という本質的な問題の変質につなげ、さらに、ネットワーク社会になってはるかに文化的な「パンデミック」の危機が生じやすくなったことを指摘している。
携帯電話にもインターネットにもすぐに慣れてしまったように見える私たちだが、しかし「紙の本の消滅」と、任意のネットワークにおける「パンデミック」に対して、ほんとうに社会はその免疫力を維持できるのだろうか? 本書はそう、問うているのである。
『紙の本が亡びるとき?』は、全部で10章からなり、その時々に様々な媒体に向けて書かれたテキストを集めた書物である。その意味でこの本は「冒頭から結末に向けて読み進む」ような、「一冊の本」性を持っていないとも言える。しかし、国語教科書になぜあれほどまでに太宰の『走れメロス』が採用されるのか(その頻度は近年ますます高まっているという)を論じたり、凸版印刷川口工場を訪ねて「活版印刷とはなにか」をあらためて問うたり、大江健三郎『さようなら、私の本よ!』をめぐる56ページにおよぶ批評があったり、一見すると表層的にはバラエティ感に満ちているものの、やはりそれぞれの論考には、今日のメディアの変質によって、書くことが、本が、我々の「知」が、どう変わっていくか、変わっていかないといけないのかを問題にしている点が共通している。それはやはり、ネットワーク社会に正面から対峙する一つの固有な「全体」になっていると思う。
そして筆者が、この本の中で最も重要なキーになると感じる概念=言葉は「中間」である。「本」のみならず私たちを育ててきた文化とはすなわちその「中間」性においてそこに豊かな何かを熟成していたのであり、ネットワーク社会の直接性<ユーザーが「主体的に」「自分の意志で」(ほんとに自分の意志で?)納得できるデータを手に入れるまで追及するようなそれ>が駆逐してしまったところの「中間」性について前田塁氏は、以下のように書く。いささか長くなるが、たいへん重要な箇所なのでご容赦願いたい。
【かつて私たちの生きる世界は無数の「中間」を持っていた。スケールメリットや集約性が効率化を実現する大規模小売店と、採算度外視の趣味的な商店や単一商品に特化した専門店との間に、小規模の商店街を。手紙を書く時間と届いてそれが読まれるまでの、配達に要する何日間かを。約束した相手と出会うまでの、ただの待ち合わせ時間を。大きな都市や市と小さな町村の間に、いまは合併で失われた中間規模の自治体を。個人と社会の間に、地縁や血縁の共同体を……。それらはもとより仮構されたもの、暫定的であることを宿命に持つ中間項だったかもしれないが、固着と流動の狭間であるようなそここそは、多様性=豊穣の源ではなかったか。小説の世界でも、歴史に刻まれる限られた作品と、読まれることなく消えてゆく無数の言葉たちとの間に無数の中間があり(文芸誌自体が作品の「書かれていない」状態と「単独で本として読まれる」状態の中間で)、様々な惰性的秩序や退屈さの温床でありつつも、そこにこそ文学の文学たる所以――ごく個人的な経験や内面が普遍へと向かって立ち上がる、その瞬間の提示――があったのではなかったか。仮にそうであるならば、それはいま、ネットワーク下の社会で必然的に失われようとしていることになる。】
すぐれた批評だけが持つ、クリティカルで同時に抑制されながらも情感がしっかりと入った、感動的とすら言っていいくだりだと思う。
そして、なかなかに要約しにくい(それはすなわちこの本の「力」なのだが)章が多い中で、極めてスッキリとわかりやすく、チャーミングなのが「二〇〇八年のビーン・ボール」と題されたテキストである。<ネットワーク下の文学で「日本語は亡びる」か?>という副題が付いたこの章は、いうまでもなく水村美苗が投じた「日本語が亡びる」という危機的問題意識に呼応するものであり、同時に、『1973年のピンボール』の作者に言及したものである。
水村美苗がいう「日本語が亡びる」とは、日本語の伝達機能ではなく、詩的構造が亡びることを指しているはずだと、端的に指摘する前田氏は、「ならばぼく(たち)は、何について考えればいいのか?」という問いを自ら立て、またまた端的に、これ以上ないくらいに明快に答える。
それは、村上春樹について考えることである、と。
【音楽的な言葉。それは詩的言語と言ってもよいはずだし、言語の違いを超えて翻訳可能な言葉たちのことだ。むろんそこには一定のルールと文体があって、だからこそ翻訳も可能になる。けれどもそれは音楽、つまり日本語とも英語とも、<現地語>とも<普遍語>とも違う、別の<言葉>に違いない。その<言葉>について考えることは、翻訳を越えて伝わる文体について考えることであると同時に、先に名を挙げた優れた書き手たちの、翻訳されえない文体の魅力について考えることでもある。だからぼく(たち)は、「日本語の亡びる」ことについて考えた先で、村上春樹について考えることにしよう。】
ここに言う「先に名を挙げた優れた書き手たち」とは、大江健三郎や古井由吉、金井美恵子、そして水村美苗といった人たちのことを指している。この人たちと村上春樹の相違は、「日本語で無数に読まれると同時に、翻訳された先でもそれと同じかそれ以上に読まれている」かどうかの相違であり、そこに優劣は関係が無い。
前田氏のいう「音楽的な言葉」とは、グーグル的な「データ」の「外部」にあり、その都度、私たちに出会いなおすことを要求するような、はたしてそんな「他者」の言葉なのかどうか。
それは、来るべきあらたな「村上春樹論」を読むまではわからない。その日を待望しつつ、文句なしに☆☆☆☆☆。
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水村美苗の一昨年〜昨年の話題作にして重要作品『日本語が亡びるとき』の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
『日本語が亡びるとき』 レビュワー/北條一浩 書評を読む