戦後とは何だったのかを、いま橋本治は真摯に記録しようとしている。本来は、記録という言葉となじまない小説というスタイルで。先に出版された『巡礼』、そして今度の『橋』。どちらも、行き詰まり、途方に暮れたままでいる時代の空気感を見事に捉え、誰しもが抱えている心の空虚さに重く響く。
『巡礼』では、主人公の下山忠市がなぜゴミ屋敷の住人となるに至ったのかを、めまぐるしく変わっていった昭和から現在までを駆け抜けて描いた。戦後を風景を形づくったものと、家族関係。二つの要素を絵の具にして、忠市という哀しい男の肖像が生まれた。
一方、本書は、変わりゆく時代の姿とふたりの少女の成長を軸に、時代の狂乱が人々にもたらしたものを見つめていく小説だ。少女たちは大人になってどちらも殺人者となるが、それは必然のひずみなのか。『巡礼』と一脈通じる哀しいふたりの少女の半生が、浮かび上がってくる。
幕開けは、雨の中、下校していく小学生たちのシーンだ。運動神経が鈍くて同級生たちから少し疎まれている田村雅美が、クラスメイトの少女たちに追いつこうと走ってくる。しかし、少女たちに取り入りたい男の子は「お前は来んな!」と叫び、少女たちは笑う。彼らは雅美だけが外れていくことを、少し小気味よくさえ思って去っていく。子どもならではの意地悪や悪意、子どもだからこそ押しつけられる大人からの不条理。思春期になっても成人になっても、そんなふうに周囲から“ちょっとだけ”うとましがられるうちに、何かが壊れていく。
雨の日になくした傘や長靴、いわゆる不良仲間に入ること、勤め先での出来事。理屈では答えられない「なぜこうなってしまったのか」という問いに、著者はひたすら小さなエピソードを積み重ね、ディテールを記録することで説明を試みる。
もうひとりのヒロインは大川ちひろという。私生児の雅美と違い、ちひろは裕福な家の娘だ。子どものときにはバレエも習い、親からの期待通りに育つことを暗に求められて成長した。母の愛という虐待がつくる家庭の空気を読み、長じては時代の空気を読み、自分を押さえつけて破滅の道を淡々と歩んでいった。
雅美とちひろ、ふたりの少女の接点は、彼女たちの母親が元同級生だったということだけ。元同級生といってもまったく親しくなかったし、娘たちの人生も何もクロスしない。しかし、価値観の変化が進む時代と、都市化の波から取り残されていく地方のもたらした澱が、膿が、腐臭が、何を変えてしまったのかを、私たちは知ることになる。
どちらの事件にも、読者はすぐに“実在のあの事件”を重ねるだろう。しかし、著者はそれを裁きたいわけでも女たちの不遇に同情したいわけでもない。その怜悧な筆致が、むしろ鋭く読者の心をかき回すのだが。
雅子、ちひろが育った80~90年代と、その母親である正子、直子が青春を送った60~70年代。すなわちバブル経済と日本列島改造計画というふたつの時代を行きつ戻りつ、ずるずると地滑りしていく日本の姿と、人間の姿を描いた本書は、こうなるしかなかった時代と社会と人間とを前に捧げられた鎮魂の祈りのようで、痛みとともに胸に刻みつけられる。
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橋本治の前作『巡礼』の書評も収めていますので、ぜひお楽しみください。
レビュワー/堀和世 書評を読む