石持浅海は非常にロジカルなミステリ作家である。通常、ミステリで「ロジカル」というと、探偵役の人物が事件に施す「推理」の道筋がロジカルである、という意味になるのだが、石持浅海がロジカルなのはこれにとどまらない。推理だけではなく、登場人物の言動一般について論理的整合を図るのだ。一頃、彼の作品の登場人物が標榜する倫理が「気持ち悪い」と言われていた時期があったが、それは恐らく、登場人物が倫理をロジカルに考察して決めていたからだろう。つまり、論理的に考えた結果、社会常識や一般的な良識に反するような結論に至っても、ロジックを信頼している登場人物たちは、その結論を「倫理的に正しい」と確信して疑わず、次の行動に移るからである。
本書『リスの窒息』は、狂言誘拐もののサスペンスだが、本書においても倫理がロジカルに語られている。ただし、個人の倫理ではなく、企業の倫理・理論の方が目立っているようだ。
名門中学に通う野中栞が、友人の小野寺聡子を連れて帰宅すると、ベッドルームで父、母、そして栞の家庭教師が死んでいた。母は栞の家庭教師と不倫していたが、これに勘付いた父が母と家庭教師を殺害、自らも死を選んだのである。両親を一気に亡くした栞は将来に不安を感じ、一計を案じる。聡子に自分を縛らせて写真を撮らせ、それを大手新聞社の秋津新聞(栞も聡子もまったく縁がない)に送付、「新聞社が身代金を払わなければ、この子を殺す」として身代金をせしめようとするのだ。常軌を逸した計画に戸惑っていた聡子も、報酬に釣られて協力を約束、メールで読者投稿欄担当に連絡し、狂言誘拐計画をスタートさせる。
一方、メールを受け取った秋津新聞の投稿課では、担当者の枚原馨やその先輩の細川幸二が、社の上層部にこれを報告。出張中の社長に代わり、鴨志田編集局長が指揮をとることになるが……。
読者の側は、最初からこれが狂言誘拐であることはわかっている。しかし、当然のことながら新聞社の方はわからない。おまけに、犯人側の栞と聡子は、秋津新聞とメールで連絡をとるに当たり、CCとして秋津新聞と犬猿の仲の雑誌・週刊道標にも同じメールを送っているのである。犯人からの理不尽な圧力に屈し、全く縁のない女子中学生の身代金を支払うべきか。それとも毅然として対応し、警察に連絡すべきか。しかし後者を選択した場合、交渉経緯の全てを見ている週刊道標が、後で「秋津新聞は金を惜しんで女子中学生を見捨てた」などと書き立てるのではないか……。
もし本書のような事件が実際に起きたら、社会倫理を日ごろ追求する立場のマスコミ企業として、同様の苦悩が生じることは想像に難くない。石持浅海はこれを非常にリアルに描く。なお秋津新聞は過去に、取材相手を自殺に追い込むという不手際をやらかし、散々批判されたという過去を持つ。よって、社外の人間に危害が及ぶことに極めてナーバスになっているのだ。特に当時、心身の調子を崩した鴨志田編集局長は。
枚原馨と細川幸二は「犯人」と交渉する中で、次第に真相に迫っていく。ミステリとしては、ここをメインに読み込めばいいはずだ。しかし本書の眼目はそれだけではない。実は秋津新聞の社内倫理や社内論理が、かなりクローズアップされているのである。
まず、脅迫メールを受け取ったことを、社内の誰にどういう経路で報告するか、という初期の段階から詳細に社内事情が考慮される。いきなり常務取締役編集局長に行くのではなく、まず次長の方に連絡すべき、なぜならばこの人はこういう社員で、あの人はああだからきっとこうなるはず……といった風に、細かいところまで理詰めでやるのだ。以後もずっとこの調子であり、秋津新聞の方で何をやるにしても、社内事情について一々言及し考慮し、社としての行動に関してロジカルな整合性をとっていくのである。
身代金要求という特殊な事態の下でのことではあるが、やっていることは、一定規模以上の会社でよく見られる、「社内事情を考慮して、プロジェクトがうまく行くよう色々調整する」という作業に他ならない。石持浅海は大手食品メーカーの技術職であるらしいが、『リスの窒息』で見られる社内調整の数々は、その経験が活かされているのではないか。
なお、栞の誘拐が狂言であることが読者には予めわかっている以上、本書の「サスペンス」は、大半を「秋津新聞社内の緊張感」によっている。このため、秋津新聞の社内事情は作品に置いて極めて重要なファクターとなっている。極端なことを言えば、本書はしがらみに塗れた企業における危機管理を描いた、サラリーマン小説としてすら読めてしまうのだ。狂言誘拐という、いかにもミステリめいた事件の渦中でこういうことを感じさせる小説は、なかなかない。
誘拐が狂言であることに、枚原馨と細川幸二がどのように気付くかは、読んでみてのお楽しみとされたい。ただし本書においては、真相看破のためのロジックよりも、「狂言誘拐をうまく進めるため」に栞と聡子が次々と手を打ち、これと並行して「誘拐犯をあぶり出し、誘拐された女子中学生を救うため」に馨と細川が様々な行動をとる場面を描いて、誘拐劇をスリリングに盛り上げることの方が優先されている。平たく言えば、本格ミステリというよりはサスペンスなのである。そして、犯人側と新聞社側が個別に「手段」を弄した果てに、物語は非常に綺麗に着地する。実に見事なお手前だ。総合評価は☆☆☆☆。
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