勤め先の新聞社が旧江戸城のお堀端にあるので、皇居なんかまあ庭みたいなもんだ、と言えなくもないのだが、たとえ庭でも隣の家のものだから、そう勝手はできない。
ビルの屋上に上がると、眼下に皇居の緑が広がり、その奥に霞が関の官庁群、左手には大手町の企業群が見渡せる。いわばニッポンの心臓部を手に取るようで、数ある東京のビューポイントの中でも屈指の絶景と言ってよい。週刊誌のグラビア撮影などには持ってこいの場所なのだが、実は屋上から皇居側にカメラを向けてはいけないという不文律があって、古参カメラマンに言わせると「皇宮警察の係官が常に双眼鏡で周囲を見張っている」という話だ。本当かどうかは知らない。不自由には違いないが、隣の庭を借景にしようという魂胆があるわけだから、強く文句を言える筋合いでもない。
ともあれ、都心中の都心にあってこの膨大な量の緑は奇跡的である。職場の窓が内堀通りに面しているので、外を眺める角度によっては窓枠内がすべて緑色で埋まる。一度同僚に「ほらほら、こうやって見ると、山の中で仕事をしているみたいでしょう」と言ったら、「ふーん」の一言でおしまいにされた。句心のない人は不幸である。
人間の存在も自然現象の一部だから、エントロピー増大の法則に従って、いずれ皇帝を廃して共和制に移行するのが自然だと私は思うが、もし今そうなったら、必ず○○不動産とか△△地所とか大手デベロッパーが乗り出してきて、バッサバッサと皇居の木を切り倒してマンションを建て、「千代田区千代田一丁目一番地に住まう誉れ」などと宣伝し始めるに決まっているから、とりあえず私は憲法第1条を含めた護憲主義者でいるつもりだ。
そんなことを考えつつ、隣の庭を日々眺めている私だが、最近どうもよそ者が目につく。週末になると、運動着姿の男女がどこからともなく集結してきて、内堀通り沿いの歩道に陣取る。道端に横断幕を張り始めて、そのうちワーッと歓声が上がるので何かと思って職場の窓から下を見ると、マラソン大会が始まっているのである。
何を今さら、と言われるかもしれないが、皇居の周りを走るのがブームになっているそうだ。「皇居ラン」と呼ぶらしい。地方に住むランニング愛好者の中には「一度、皇居ランをしてみたい」とあこがれる人もいるという。聞いてないよ、という感じである。近所のどうってことないラーメン屋が、いつの間にか行列のできる人気店になってしまったような、置いてきぼり感がある。
昔から皇居の周りを走る人はいた。10年くらい前になるが、私の所属する週刊誌で「日本の疑問」と称して、「昆布は海の中でダシが出ないのか」とか「パンダは毛を刈っても白黒なのか」とか、どうでもいい思いつきを検証する企画をちょくちょくやっていた時期がある。その中に「昼休みに皇居の周りを走っているサラリーマンはいつ昼ご飯を食べるのか」という項目があり、同僚の女性記者がランナーに伴走しながら取材させられている様子が、見ていて実に気の毒だった。
要するに、機動隊員でも消防署員でも運動部員でもないのに、自ら進んで休み時間をつぶして皇居の周りを走るなんて人は当時、変人扱いされていたのである。毛を刈られたパンダと一緒だったのである。それが今、オフィス街が閑散とする週末、コインパーキングだけは満車だったりする。「皇居ラン」をしに来る人たちの車なのだろう。
そもそも、わざわざ車を運転してまで走りに来るというのが分からない。例えば練馬あたりから10キロほど車を運転してきて、皇居1周(ちょうど5キロだとか)走って、また10キロの道程を車を運転して帰る、その行為にどうも釈然としないのである。全然関係ないかもしれないが、あるとき駅のホームで、山行帰りとおぼしき、ごつい登山靴をはいた中高年の女性グループが電車を待っていた。朗らかに談笑する彼女たちを見て「いつの時代も一番元気なのはおばさんだなあ」と思ったのだが、電車が着いてドアが開くや、おばさんたちは降りる人をも押しのけて、一目散に空いた座席目がけて突進、「ほらここ、もう一人座れるわよ」と大声を上げ、傍若無人とはこのことであった。