書店(特に古本屋)で本を物色していると決まって大便がしたくなるというのは、本当かどうかは知らないがよく聞く話で、おそらく条件反射が関係していると思われる。とは言うものの、一体何が「条件」を構成するのかと考えるとどうもよく分からない。
古紙やインクの匂いが生理的な作用を及ぼすとか、高い書棚に囲まれた状態がトイレの個室を連想させるとか諸説ある。私の考えでは、おそらく「用便しても構わない」というメッセージが、脳から体に伝えられるからだろう。便意は結腸、直腸の反射(条件反射ではなく)によって自動的に発生するが、脳によってコントロールでき、場合によっては意識下に留め置かれることもある。
便意とは異なるが、人がなぜ眠気を感じるかというと、寝床を探すためらしい。疲労困憊した揚げ句、ある時点で突然倒れ、その場で眠り込んでしまうと、私たちの祖先(ヒトになる前も含め)は簡単に天敵の餌食になってしまったことだろう。だから、そうなる前に眠気を感じるように進化した(ダーウィン的に言えば、たまたま眠気を催す遺伝子を持っていた個体が生き残り、多数派を占めた)。眠くなれば、天敵に襲われない安全な場所を探して寝床を確保するように行動する。つまり、眠いから寝るのではなくて、寝る必要があるから眠いのである。
同様に、用便するためにはトイレはもちろんだが、他者にじゃまされない自分だけの落ち着いた時間が一定、必要である。書店であれこれと気ままに掘り出し物を探している状態が、それとピタリと重なるのだ。少しだけ本屋をのぞいていくかといって、本当に「5分だけ」と決めている人は少ない。トイレだって早く済ませたいのはやまやまだが、「5分以内で」と言われれば、出るものも出なくなってしまう。いったん家の敷居をまたげば7人の敵がいるといわれる巷にあって、書店で本を物色する行動は、自分だけのために時間を使える環境がある証しであり、それが脳による抑制を取り払い、便意を解放するのだろう。
そう考えると、「読書は脳の栄養」などと言われるけれども、脳自身にとっては排泄とさほど変わりがないレベルの行動であるという話になるのかもしれない。もっとも、生き物は排泄しないと生きていかれないのだから、それだけ大事なことなのだ――と論理を流すこともできるのだが、言葉遊びをしている後ろめたさがある。それよりも、どうやら読書とは世間で言われるほど高尚な趣味ではなくて、用便するのと同じやむにやまれぬ生理的な営みだと決めつけてしまうほうがいいようだ。
そもそも読書あるいは本そのものと用便の関係は深く、トイレでしゃがむのに読むものがないと落ち着かない人は少なくない。また一方で、一人で食事をするときには傍らに本や雑誌、新聞(それもなければチラシのたぐい)がなければ間が持たないという人も、ことのほか多い。人間の形をとことんデフォルメしていくと、最後は手とか足とか一切のでこぼこがなくなって一本の丸い輪っかになるのだが、その前段階は竹輪のような管である。要するに、人間(=脊椎動物)の基本形を追究すると、一本の消化管に行き着く。その管の入り口と出口がそれぞれ本とつながっているというのは、何やら暗示的である。
余談めくが、食道とか胃、腸などの消化器について、私たちは体の中にあると思いがちだが、実は「内側」ではなく「外側」なのだ。それは人間を管とか輪っかとみなせば分かる。体表と消化管は一筆書きでなぞることができる。ドーナツでいえば穴のところが胃とか腸(の壁)にあたる。腸内に兆の単位の細菌がすんでいるのも外側だからであって、内側に細菌がいるのは感染症という病気である。
ところで、この腸は「第二の脳」と言われている。神経細胞が脳の次に多く存在し、心の安定にかかわる神経伝達物質セロトニンを作り出しているという説もある。また、ストレスなど心の状態と、腸の密接な関係は誰しも実感として理解できるはずだ。そして、そういう大事な腸の作用は、腸内細菌(善玉菌、悪玉菌といった言い方を聞いたことがある人は多いだろう)によって左右される。
つまり、私たちが私たちの最も内側、ど真ん中に存在すると信じて疑わない「心」は、私たちの外側でうごめく別の生命体の働き次第で、容易に変わりうるということである。私たちは大概、心を脳(第一の脳)と同一視している。脳は頭蓋骨に覆われた閉じた空間の中(=内側)にあり、そこから自由に自律的に立ち上がる「私自身」が実在すると信じている。しかし本当は、脳だけが今の私自身のありかであるとは言えないかもしれないのだ。
となると、腸壁にすみついた細菌といえども、単純に私自身の外側にいる「他者」と決めつけていいのか、という疑問がわいてくる。私の命と細菌の命は、別々のものなのか。細菌に心があるかどうかは分からないが、私の心は私だけのものだと言い切れるのか。そして、私の心は私の体の外側にも広がっていると考えるのは荒唐無稽なことなのか。
と、相変わらずだらだら書いているのだが、そろそろ与太話を収めないと石が飛んできそうだ。結局、何が言いたいのかといえば、人間が「内側と外側」を実は分けられないクラインの壷かもしれないのと同じように、大抵の物事は相対するかのような性質を併せ持つということだ。冒頭、下品とは思いつつ、読書と用便のかかわりについて述べてみた。本を読む行為は、一見何かを一方的に吸収しているように映る。しかし、詳しく見ていくと、私たちはページに書かれている事柄をただ受け取っているのではない。そこにある事実、解釈、物語に私たちの心は喚起され、私たち自身のつぶやきが立ち上がる。著者の言葉を私たちは、同意する私、疑う私、反論する私として理解する。それは吸収というより、むしろ排泄である。
人と人とのかかわりを表す「出会い」という言葉を、私たちは本を相手にしても使う。いい本に出会ったとか、巡り合ったとか。人と会ったときに、一言も自分がしゃべらないというのは変だろう。出会いとは情報の交換、すなわち「吸収と排泄」のプロセスである。