彼女が日記を綴っていた時代は、いうまでもなく政治の季節の真っ最中です。アンポがあり、エンプラ闘争があり、全共闘に全学連、民青VS新左翼、そういう時代です。総括だとか、自己批判だとか。いまここで書いていても「ゲーッ」となりそうな概念がメインストリートを突っ走っていたのでしょう。まあ、平たく言って熱苦しい時代だったのです。しかしそこには、そうなってしまう歴史的な必然というものがおそらくあり、「嫌いなんだよねー、団塊の世代って」と、飲み屋でクダ巻いている少し下の世代のオジサンだって、もうじゅうぶんメタボな50代なわけで、つまり、人は生まれてくる時代を選ぶことはできない。
高野悦子さんの日記には、もう何百回も、「自己批判」の言葉が書きつけられることになります。だらしない自分、弱い自分への呪詛。他人に対する劣等感。時には優越感をふと感じてしまった自分への嫌悪。男性恐怖症。両親への違和と甘え。恋愛に対して「意味」を求める、考え続けるというあまりの生真面目さ、悲しさ。
もういいよ、やめちゃおうよ、強い人なんかいないよ。そう思い続けながら、3冊、読んで行きました。やめちゃうってさ、でも、あなたの、そういうやり方じゃなくって、もっとズルがしこくさ……。
日記を読み進めながら気がついた細部なのですが、高野悦子さんは心が暗く凝り固まっている時、追い詰められている時、なぜか曜日の記載が無くなるのです。6月25日、とだけ日付の数字が書かれていれば、それは概ね、硬くしこりを持った筋肉のような日記だと思っていい。しかし、徐々にそれがほぐされていくと、なぜか6月25日(木)と、ちゃんと曜日が書きこまれます。すべてがすべてそうではありませんが、これはわりあい顕著な傾向だと思います。
そして私がなんとしても彼女の日記から大事に取り出したいもの。それは、高野悦子という人が綴るカタカナの限りないやさしさ、その可能性の拡がり、についてです。
新しい年
まっ白でそして新しいくつをはいて
ジロと散歩にいった
こおりをバリバリとわって
ザクザクとシモをふんで
ジロといっしょに走りっこした
新しい年がひらけてくるみたいで
何だかうれしくなった
楽しくなった
そして走った
ステンコロリー 初ころび
へんな気持ちだった
でも走った
ジロも走った
いっしょに走った
――『ノート』より――
1963年1月1日、火曜日。彼女のいちばん最初の、13歳の最後の日に書いた日記はまずこの詩から始まります。ステンコロリーはもちろん、シモ、にも注目!
【朝、父の運転する車で、姉と弟と宇都宮まできて汽車にのる。「ホンジャまあ……」とニギニギをして別れた程、サッパリコンであった。去年の夏、帰省した時とは大ちがい、あの時は母が涙を流したりしたので、ついしんみりという気持ちになった。】
――『二十歳の原点』1969年1月7日火曜日の日記――
【仏語も休んで一日何をしていたのか、サンデーちゃんを読んでいたーんヨ、タバコをすってフラフラになってサー、それでヨー。】
――同、1月20日月曜日の日記――