「花鳥風月」の不在は、すなわちカラフルな色彩の不在でもあります。そもそも、「機械」がひしめきあう工場の中に色彩は乏しく、行きつく先はやはり…… そう、「黒」ということになるでしょうか。『巡航船』に、ズバリ「黒」と題された一篇があり、ピタリと申し合わせたように、『夜學生』には「黒板」という美しい詩があります。
【あるひるやすみどき、文学部の事務所の前で、彼の属してゐる同人雑誌の四五人がたむろしてゐる中に、一人、黒い外套を着た背のすらりとした青年がゐた。足元を見ると黒い編上靴の紐が全部ほどけたままになってゐる。詩人といふものは何かだらしないところがあるといふ伝説から、私ははつとして襟元を見るとTの徽章がついてゐる。まぎれもなく立原道造であった。】
――「黒」より――
【 黒板
自分は眼を閉じる まっ暗なその
神の黒板を前にして 自分は熱心な
生徒でありたい 何ごとにも識り分け
ること少く 生きることに対し ま
たも自分は質問の手をあげる】
――「黒板」より――
立原道造などという近代詩人の名前が出てきて、その距離の遠さに驚かされますが、杉山平一さんは、そう、一九一四年生まれ、今年で満九十六歳を迎える現役の詩人です。立原道造はわずか二十四歳の若さで亡くなりましたから、いっそう遠く感じますが、同じく一九一四年生まれ。ともに東京帝国大学の学生であり、杉山さんは文学部美術学科、立原道造は工学部建築学科(すぐ一つ下の学年に丹下健三がいました)の学徒でした。
ちなみに、中原中也賞の第一回受賞者が立原道造、第二回が杉山平一であり、このあたりにも二人の因縁を感じます。
杉山平一さんは、工場経営者の息子に生まれたがゆえに、自らも父の事業を手伝い、自分の代になってからも、どんどん経営状態が悪化し、長期間に渡る従業員の給料の未払いや、果ては不渡りを出すという、さんざんな辛酸を舐めている人です。このあたりのいきさつを綴った『わが敗走』(編集工房ノア)という本もあります。まずは青年期の父との確執と鬱屈、機械に囲まれた環境などから、「灰色」や「黒」に親しむようになり、やがて経営者としての苦闘の渦中で、文字どおり、心は真っ黒になっていったに違いありません。
しかしその「黒」は、杉山平一という人がすぐれた文学者であったがゆえに、単に行き止まりの黒壁ではなく、時に「黒板」という慰めになり、自らに無限の問いを発することで正気を保ち、けっして長文にはならない(杉山平一さんの詩、小説、エッセイ、そのどれをとっても「長編」はありません)すぐれた機械のような、大いなる機械の部品のような、硬質の作品に結晶していったのだと思います。
最後に、「星」について触れましょう。実業人として「敗走」の日々を続ける杉山さんが、地上のどこにも色鮮やかな彩を認めず、花も鳥もそこに見ないような時、つらく苦しい一日がなんとか終わり、夜空=空の黒をふと見上げる時、そこに見出すのは当然、「星」です。月ではいかにも明るすぎる。やはり「星」に惹かれるのは必然なのです。
だから『巡航船』にはたくさん、星をめぐる思考と内省、書き方はささやかだけれども実に豊富な星の知識の披瀝、が出てきます。『巡航船』の函には、正方形にカットした、やや厚手の紙が中央に貼られており、おそらくは北極星と思われる、著者自身の手による装画が描きこまれています。そしてその正方形の紙の色は、杉山さんが「黒の時代」を迎える前に好きだったという「黄色」が選ばれていることに、あらためて注意を向ける必要があるでしょう。
【自分が最も柄に合はない仕事に就いて柄に合はない位置を求めて、柄に合つた境遇にゐたならば気づかなかつたであらう自分の弱点や欠点の、どんなに多くを見知つたことだらう。自分を離れて自分の外にばらまいた多くの星々、そのおかげで、自分自身を見出してゐるのではなかつたか。おそらく星一つない夜に、北を知ることができないやうに、自分を離れなかつたならば自分という北極星を知ることができなかつたであらう。】
――「動かぬ星」より――
あえて自分の不得手な実業の世界に飛び込み、自身の小さな価値観の埒外にいるような、まったく異質な人々の中に身を投げ出すこと。そこで受ける軋轢や叱責や、嘲笑やストレスもすべて呑み込みながら、同時に「自分という北極星を知る」ことをめざした一個の知性の姿がそこにはあります。
おそらく杉山平一さんにとって、文学とは、工場の対極にある「虚業」ではなく、生きることにおいて同一地平にある「実業」そのものだったのではないかと思います。そして「杉山平一」という北極星は、「柄に合わない」どころではなく、はるか戦前の時代から、それこそ立原道造がいたような遠い昔から今に至るまで、ずっとわれわれの夜空を、精密な星座=機械のように、照らし続けているのです。