7月20日(日)
「誤審」の章を読み終わり、第4巻をフィニッシュした。
この章では、ドミートリーの裁判の様子が描かれ、タイトルどおりに彼の冤罪が決してしまう残念な結果となるわけだが、そんなことより、証人、検事、弁護人たちが語る言葉に、これまでのストーリーの中に散漫に配置されていた小さなエピソード群がどどっと集約され、物語上の重要な要素として花開いていたことが、ひどく印象に残った。
「ああ、あのなんでもないと思っていた挿話が、ここにきて、こうやって生きてくるわけね」といった納得が得られ、2,000ページあまりつづいたストレスいっぱいの読書が、多少なりとも報われた気分になれたものである。
また、ここにきてようやく本性を表す主要登場人物ならびに脇役たちの言動にも、なんどか目を奪われることになった。いままでの日記で、「この人物は、こういう感じの人として描かれているのであろう」というような予想を何度か書いてきたが、それが当たっていたり、はずれていたりし、その結果に一喜一憂できたのである。
カテリーナは、思ったとおり非常にイヤな女だった。これは、まあ、容易に予想しやすいところではあったわけだが、当たってうれしかった。今後、こんな女には、たぶん、ひっかかるまい。
一番驚いたのはのだが、超脇役の一人と思いこんで7月3日の日記に書いた、ことなかれ主義のヤブ医者ゲルツェンシトゥーベが、ドミートリーの生来の純な魂を証明する、徳のある立派な医師としての存在感をもって登場していたことだ。彼が、昔、幼くも哀れなドミートリーにくるみを一袋恵んでやり、数年後にその恩を忘れなかったドミートリーの様子を証言するくだりには泣かされた。大筋のストーリーとは関係はないものの、「誤審」の章においては、もっとも心に残るシーンであったといえる。普段から言葉少なげで、世間の評判も気にしていない人を、自分の想像の範囲内で安易にキャラクタライズしちゃいかんという反省が生まれたものだ。
とにかくドストエフスキーは、これだけの大部の小説で、いかに綿密に仕掛けをほどこしていたことがわかった次第。だから、辛いだろうが、なんでもないと思われるシーンでも流し読み厳禁なのである。記憶力に自信のない中高年は、なるべく間をおかず、集中して読み通すことが理想なのである。
えー、以上、わずか63ページのエピローグの読書を残した状態で、本日の余裕綽々の読書感想文でした。
ところでこの章を進める途中に、ある一つの悟りを得てしまったので、最後にその報告だけ、ちょっと付け加えておきたい。
土曜日の深夜のことだ。その日の読書を終えて、飲酒しながら全英オープンゴルフの模様をテレビで観戦しているときに、それは突然にやってきた。
「そうか! 人生とは、『信義』と『経済』と『色恋』の三すくみ、もしくは、三つ巴ということなんだな(ユリイカ!)」
「経済」と「色恋」に関しては、とくに説明はいらないだろう。問題は「信義」なわけだが、これはなにも宗教心に限定するということではない。道徳心とか、正義感とか、人生の信条とか、仕事にかける信念とか、そういうことも含むものと考えてもらっていい。
うまく説明できないが、この「信義」と、「経済」「色恋」の三つは、どれが欠けても、また、どれかに偏っても、幸せな人生とならない気がしたのである。しかも、それぞれは、相容れない性格をもっているため、たえず三すくみ状態であり、バランスよくそれぞれを維持しながら生きるのは、非常に困難ということもわかった。つまりは、結論として、幸福な人生の実現の難しさにも思い至ったというわけだ。
わかってもらえただろうか? 観念的すぎて、ようわからん? うん、じゃあ、『カラマーゾフの兄弟』の読書という苦行を体験してもらうしかないかな……。
えー、以上、わずか63ページのエピローグの読書を残した状態で、これまでの読書を受けた余裕綽々の総括のようなものでした。
というわけで、ついに次回読み終わるぞ。この日記も最終回だ。
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