書店で自己啓発本を手にするのは憚られる。
カネが欲しい、成功したいと密かに思っていたとしても、人様にそれを悟られるのがなんとも悔しく、恥ずかしいからだ。これは、ものすごくエッチだと自覚はしていても、店頭でエロ本を買えないのと似ている。
今回取り上げる本は、小説仕立てはあるが、その自己啓発本である。昨秋、仕事絡みで、やむにやまれず読むことになった。幸いなことに、仕事先からクロネコヤマトで自宅に直送されたため、市井の人々にこの本を手にしたことはバレはしなかった。
出だしは、あまりに唐突な設定で、鼻白んだ。ある日、気弱な現代青年の部屋に、ゾウの姿をしたインドの神ガネーシャが現れるという馬鹿馬鹿しさ。いくら抽象的な喩え話が多い自己啓発本の類とはいえ、そんな子どもっぽい絵空事のストーリーに乗っていけというのは、無理がある。思慮深い大人じゃなくても、大方の人はここで読むのを止めたくなるだろう。
と思ったわけだが、仕事の使命もあり、先を進めた。
するとだ。不覚ながら、ほんの数ページいったあたりから、ガネーシャの関西弁の台詞が気になりだしてしまった。正統な自己啓発本とちがい、随分とふざけたおちゃらけが入っており、あれ、もしかして、けっこう面白いかも、ということになった。なんというか、後になって考えてみれば、それが自己啓発本を遠ざけようとする自意識をうまく誤魔化してくれるものとして作用したように思う。前章が終わり、第一章に突入するころには、余計なことを考えずに本格的に楽しむ読書体制へと入っていった。遅読のくせに、飛ばし読みすることもなく、二日で読み終えられた。
どれくらい面白かったかということを、本文からの短い引用で説明するのは難しい。なので、こういえば、わかってもらえるだろうか、「このごろ電車のなかでマンガを読んで笑いをかみ殺すことはなくなった。しかし、某月某日、阿佐ヶ谷から代々木に至る総武線内で、この本を読み、それを二度ほどやってしまった」――。
とにかく、気弱な青年の標準語と厚かましいガネーシャの関西弁の絶妙なやりとりが、往年のパワーをもっていたころのギャグマンガのように、随所で笑いのツボを押さえてくれた。個人的には、中盤、それまで二人の間で展開されていたストーリーのなかに、突然ガネーシャの友だちの釈迦(天上天下唯我独尊の釈迦)が入ってきて、三人で富士急ハイランドにでかけるあたりが大好きだ。
で、告白しよう。こうして笑いで読まされているうちに、ガネーシャが語る成功へのヒントが、知らず知らずのうちに身に染みていた。そのころ、ここ数年来のうちでもっとも多くの仕事のオーダーをもらい、やれるかどうかも冷静に判断することもなく、がめつくすべてを引き受けていたのだが、なんとかやれた。そこには、ガネーシャの言葉によって身も心もピリッと引き締まっている自分がいた。
じつは当初、著者・水野敬也は自己啓発という分野を笑い飛ばす目的で書いているのではないかと思っていた。
だが、そのわりには、ガネーシャが語る成功へのヒントは、笑いの隙間を縫って、あまりに説得力をもっている。
どういうことなのかなあ、と訝っていたら、巻末の参考文献の欄で、著者が40冊近い自己啓発本を読みこんでいることがわかるに至り、納得がいった。ああ、この人は、まじめに自己啓発に取り組んでみたのだな、と。そのうえで、読ませるために、笑いをまぶしてみたんだな、と。そして、いまは、こういうテーマを斜に構えず、気取らず、真正面から勝負して面白く読ませるモノ書きもいるんだな、とも理解させられた。
水野敬也を文学的な人といっていいかどうかはわからない。でも、ずいぶん筆が立つ人だと思う。たいがいの自己啓発本は、最後がぐたぐたになり、竜頭蛇尾で終わるものだが、そうはならない。それどころか、気弱な青年が夢を叶え、成功するラストシーンの描き方は、ちょっと感動的ですらある。
ちなみに、こんど、もしかしたら、映画になるかもしれないという予想を立てていたら、原作の多くをマンガに頼っている堕落したテレビドラマになるという。
好奇心より自意識の強い読書家たちは、ますます手にとることを避けるにちがいない。それが不幸だ(どっちの?)。