〈ひとつの人影がくっきり浮かびあがった。同時に数千の人影も現れた。(中略)人影は、不快な気分をもよおす巨大な建物の壁から離れた。(中略)壁から切り出された人影は、他の姿に突き飛ばされてよろめいた。(中略)だが、このよろめきは見せかけにすぎなかった。ほんとうのところは、労働から睡眠への、辛さから退屈への、苦痛から死への最短ルートだったのだ〉
謎めいた書き出しとともに現れる〈人影〉の持ち主の名は、エティエンヌ。妻子持ちで、2階が未完成のヘンテコな一戸建てに住んでいる、うだつが上がらない会社員だ。なぜ彼が登場人物として、浮かび上がってきたのか?それは、観察者ピエールの目に留まったから。身分も出自もわからないこの男は、物語の語り手でもなければ狂言回しとも違う。ただ、彼がエティエンヌを観察することで物語は始まる。主要な登場人物として話に介入もするけれど、それによってどんな展開になるかまでは、把握していない。でも自分が〈作中人物〉だと自覚もしているという、何とも不思議な役回りなのだ。
『文体練習』などの実験的な作品で知られ、潜在文学工房(ウリポ)の発起人の一人でもあったフランスの作家レーモン・クノー。昨年秋に刊行が開始された、水声社「レーモン・クノー・コレクション」の最新刊にして処女作でもある本書について、読みにくい難解な小説をイメージするかもしれないけれど、決してそんなことはない。
手探りの状態で始まった物語は、ピエールの乗ったタクシーがエティエンヌを轢きそうになった事故を境に、一つの筋が見えてくる。エティエンヌは事故が縁で知り合いとなったピエールを誘って、郊外のフライドポテト屋へ向かう。そこで出会った古物商トープ爺さんの家へ品物を見に行った二人だが、掘り出し物はなく店に戻ることにする。その帰り道、トープ爺さんの家の青く塗られた戸の後ろには、金が隠されているかもしれないという雑談をする。すると話が漏れて、詮索好きで欲深いクロッシュ夫人に伝わり、思わぬ騒動に発展してしまう。
さまざまな偶然や勘違いが重なることで物語は進んでいくけれど、伏線が読者に提示されているので、筋が頭に入ってきやすい。そこへクノーの作品に欠かせない要素である笑い—たとえば、「小人主義」=ナニスムを、「自慰」=オナニスムと取り違えるような言葉遊び。たとえば、喧嘩を実況しているはずがいつのまにか殺し合いを実況しているというような寸劇の数々—が加わることで文章にリズムが生まれて、読みやすく飽きがこない。
登場人物も個性派揃い。前述の人々に加え、エティエンヌの妻に恋する失業中の音楽家ナルサンス。エティエンヌの義理の息子で生意気な少年タオ。弱みに付け込んで人に寄生して生きる小人ベベなど、一癖も二癖もある人間ばかり。さらには、当時1930年代のフランスを暗示する戦争の影や、登場人物の漏らす内省的な呟きが物語に陰影を加える。
作品に盛り込まれている多様なモチーフや手法には、何らかの意味が込められているはずである。だけども、ひとつひとつについて考えれば考えるほど、その全貌がぼやけてしまう印象がある。本書には全体を通して、存在することの意味など哲学的な問いかけも見られる。ところが、これを読解の突破口にしようとしても、結局は作者によってはぐらかされてしまう。〈これから神さまの話なんかをするつもりじゃないだろうね?〉と登場人物に言わせて哲学問答を打ち切り、真理に手が届きそうな途中で話をリセットしてしまうのだ。そしてまた、新たな企みの元に作られた作品へと読み手を誘っていく。
そんな作者の足跡を、この水声社のコレクションによって辿らない手はない。クノーの作品には、いつまでも答えの出ない世界を生きる愉しさがある。