本書の主人公、ハリー・ラドクリフは天才建築家である。
ただし、「信念と才能と思い上がりをちょうどうまい割合で持ち合わせている」という評価も甘いんじゃないかと思うぐらい、嫌な奴でもある。
なにしろ本人が「成人して以来、さまざまな重要人物に天才と評価されてきたおかげで、とんでもない不作法、無神経、礼儀知らずを繰り返しても、どうということなくやってこられた」としゃあしゃあと語るのだ。こんなのを、嫌な奴以外になんと言えばいいのか。
だが、実際の話、才能が圧倒的であれば、嫌な奴であることはあまり気にならない。仕事上、自称含めて「才能のある」人々に会う機会は多いが、「二度と取材なんかしてやるか、この野郎」と思うようなのは、小賢しいだけで本物の才能はない嫌な奴に限られる。
完全に「あっち側」の人なんじゃないかというような奇人もときには存在し、川のあっちとこっちで会話をしているような気分になることもあるが、それはそれで、たまならば楽しい経験となる(毎日は勘弁)。ふた桁の年数、そういう人々とのコミュニケーションをメシの種にしてきた経験から見ると、ハリー・ラドクリフは十分「こちら側(正気側)」の人である。こちら側にいつつ天才であるというのは、嫌な奴だろうがなんだろうが、結構きつい。だからこそ、ハリーは一度、川を渡りかけた。
本書のストーリーは、渡りかけた川の途中から魔法で引き戻されたハリーが、またしても魔法的な世界に突入し、受け入れる過程を描いている。
つまり、物語は魔法の存在を前提に語られる。
似顔絵がしゃべり出したり、さっきまで人が乗っていた車がミニカーサイズに縮んだ(しかも食べられる)り、信じるのが難しいことが次々に起こる。そして、「奇蹟を疑っちゃいかん、自分の反応だけを疑え」と言う。
おそらくこのあたりで、うへぇ、と言って読むのを止めてしまう人も出ることだろう。だがそこはちょっとだけ我慢して、最後まで読み通してほしい。なぜ、本書の登場人物たちがことごとく、魔法を受け入れてしまったかが理解できるから。
彼らはみな、神の存在を疑いもしないのだ。ここでの「神」はキリスト教の神、イスラム教の神、といったものとは少々趣を異にしている部分がある。すべての人類の創造者であり、包括する存在としての神である。そういうものの存在を、性格の悪い天才であるハリーすらが、まるで疑っていない。
全能者としての神が存在するならば、奇蹟や魔法は、神の仕業として当然ではないか。人にはできないことを神が行って、なにが悪い。
そしておそらく、神の存在という大前提は、西欧的世界で暮らす人々にとっては当たり前のことだ。だからこそ、その大前提に疑問を投げかけるような芸術作品や主張は非難され、センセーションを巻き起こす。
ただし、本書で(間接的に)描かれる神は、創造主を長くやりすぎて飽きてしまったのか、自ら手を下すことはしない。ハリーの建てるものを通じて、あることを達成させようと仕向けるのである。なかなか性格の悪い奴ではないか。「材料を用意するのは神ですが、コックを用意するのは人間です」というわけだ。
ハリーがなにを達成しようとしているのかは、ストーリーの鍵のひとつなのでここでは明かさないが、それが達成できたときに起こるであろうことも、性格が素直なら思いつかないたぐいのものである。
つまり、身も蓋もなく言ってしまえば、本書は、性格の悪い天才、ただしただの人間が、性格のよろしくない創造主に立ち向かう話ということになる。居直ってみたり悟ったようなことを言ってみたり、じたばたを繰り返すハリーの立ち向かい方はそのまま、ものを作る人々のじたばたである。
数あるジョナサン・キャロル作品の中から、あまり迷いなく本書を取り上げることにした理由は、おそらくそこにある。そのせいか、ラストに向けて、ハリーがなんだか善人風になっていくのは、やや不満である。
「用心しろよ、ハリー。そのうち、気がついたらいいやつになってたなんでことになるぞ」
「なってたまるか」
というクライマックス寸前での会話を、ハリーには是非、覚えておいてほしいものである。