正体不明の何者かを追って主人公が彷徨う筋立ては、タブッキの得意技だ。死体置場の番人が身元不明の他殺死体の正体を探ろうとする『遠い水平線』や、「あの男」に会わなくてはいけない主人公がリスボンの街を流れ歩く『レクイエム』。それに先だって書かれた『インド夜想曲』は、ページを開いた瞬間から、肌にはじっとりと湿った暑さがまとわりつくような一編だ。インドについての通り一遍の連想のせいではない。読んでいると、息を詰めて何かを見つめるときに流れる嫌な汗を思い出す。
語り手の男は、失踪して生死も定かではない親友シェルヴィエルを追って、インド各地を放浪する。冒頭から前途多難な旅を予感させる十二章からなるこの物語は、男の軌跡に沿って、ボンベイ(ムンバイ)、マドラス(チェンナイ)、ゴアという都市ごとに三部に分けられている。男はシェルヴィエルの足跡をなぞるかのように、手がかりを知ると言われる人物を訪ね歩くのだが、糸口は常にぬか喜びに終わる。というのも、男が出向いていくそのタイミングを見計らったように、シェルヴィエルはすでに別の土地に旅立った後なのだ。
行方が杳として知れないシェルヴィエルとの「隠れんぼ」のような旅は、夢と現(うつつ)の合間に立ち現れるようなミステリアスな体験と意味深なメッセージを拾い集めながら、コラージュされていく。
ホテルや病院、鉄道休憩室など、物語に登場するのは、すべてインド実在の場所だ。にもかかわらず、男が出会う人物とのエピソードはどれもふわふわと幻想的な印象が強い。不妊の女たちに崇められたという巨根の老人、泥棒を働いたモノを部屋にそっくり忘れていった女、フィラデルフィアの電話帳を手に片っ端から手紙を出す青年……、それらは共通して、現実という地平に不意打ちで開いたクレバスを覗き見たときのようなぞっとする感触を残す。
VII章では、男はマドラス=マンガロール街道のあるバス停留所で、猿を連れたすばらしく目のきれいな少年に出会う。少年がおぶっている猿だと思った生き物は人間で、少年は自分の兄だと男に告げる。兄には過去も未来も見える能力があるのだ、〈「あなたのカルマを知りたいですか、たった5ルピーですよ」〉と続ける。
ところが返ってくるのは思いがけない答えだ。〈「兄はだめだって言うんです。あなたは、もうひとりの人だって」〉
このあたりから、読者の胸にはざわざわとした疑問が湧いてくる。男が探しているシェルヴィエルとは何者なのか? いや、それよりもこの旅する男は誰だろう? 男が探しているのは、本当は誰だと言うのか?
その答えは、正確には“答えらしきもの”は、最終章で見えてくる。場所はゴアのリゾートホテル。男は、〈人間の惨めさ〉を写真に撮って生計を立てているという女性カメラマンと出会い、彼女から仕事を尋ねられて〈強いていえば本を一冊書いている〉と言う。驚くことに、男が説明するその小説の筋は、男が旅してきたこれまでととてもよく似ているのだ。それが意味するところは……?(興味のある人は、144~148ページを熟読されたし。)
本書の意図をおぼろげながら悟った後で読み返してみると、コラージュとしてしか見えていなかった男の旅の記憶が、今度は一連のうねりでもって迫ってくる。IV章の鉄道休憩室で交わされたこの会話が言い当てているように。
〈「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしているのですか」僕のそばのベッドで横になる支度をしていた紳士が言った。〉〈「これに入って旅をしているのではないでしょうか」と僕は言った。〉