高校時代を新宿の繁華街の片隅で過ごした。
校門を出たところにジャズ喫茶ACBがあり、その先に喫茶店ウィーンと風月堂が並んでいた。後年、文化人のエッセイに風月堂が溜まり場だったと書かれているが、わたしはなぜかウィーン派であった。それはけっして美人姉妹がやっていたからではない……と思う。
ときに、こっそりと潜り込んだ映画館で上映していたのが、水上勉原作の『五番町夕霧楼』だった。主演は佐久間良子だったか。少しだけ耽美な感覚をもって映画館を伏目がちに出たことだけは覚えている。
ほかはとりたてて水上文学に親しくふれた思い出はない。
むろん『飢餓海峡』『雁の寺』といった名作ぐらいは知っている。それが小説ではなく『土を喰う日々』という本に出会ったとき、ふっと手にとってみたくなったのはなぜか。
「春さきは山菜の宝庫なので、山里に住むありがたさを感じる」「個性ある草芽のあたたかさ、土の臭い」「水はまだ切れるように冷たくて、ゴム長を通して足の肌に痛く伝わってくる」「山肌の凍土をひたす水のぬくみ。土の唄をきく」……といった文章のきらめきに、小説とは異なる水上の爽やかな感性を見たからかも知れない。
人間の直面する暗部と葛藤を描くことで成り立っていた水上の小説の世界と表裏を成すように、そこには自然の母なる大地にそっと寄り添うような空間が、文学以前の素直な心根として現れているような気がしてならない。
水上は晩年に信州の山里に移り住み、晴耕雨読の日々を過ごした。畑を耕し作陶に励んだ。
そんな中からこの本は誕生した。サブタイトルに「わが精進十二ヶ月」とあるように、料理の基本は寺の小僧時代に身につけた精進料理だ。古くは道元禅師の『典座教訓』であり、臨済宗の『百丈清規』の教えだ。したがって料理だけを語るのではなく、あるときは料理道具のスリコギであり、筍を料理する前の竹やぶの思い出であったりする。
確かに、えび芋煮、ゆり根甘炊き、聖護院かぶのあんかけ、蕗の薹のあみ焼き、あけびのつるのおひたし、えんどう豆めしに若筍汁、うどのあえもの、青梅のかりかり漬け、わけぎの梅肉あえ、実山椒の辛煮、胡麻豆腐、しめじの淡味炊き、唐辛子の辛煮、くるみ味噌、大根と菊の花の酢あえ、山芋のまる焼きというように、四季おりおりの食材と料理が次々と披露されるが、それらはけっして料理のレシピについて書かれているのではない。
むしろ「台所で理屈をこねまわすのは下の下というべきだろう」「食事は食うものであって、理屈や智識の場ではない」と断じているように、大地の恵みを上手に料理しいただくことで、人もまた大地によって生かされているのだということを語っている。
わかるだろう。いま流行の料理の本ではないことが。
この本から19年後、水上は続編ともいえる『精進百撰』(岩波書店)を著している。