天保四年、無名な浮世絵師に新興の出版元から一世一代の功名のチャンスが到来。三十七歳の遅咲きデビューを果たした作品、これが世界的にも有名な歌川広重の「東海道五十三次続絵(つづきえ)」の誕生である。
商業的な人気路線を誇っている美人画でも役者絵でもないのに、浮世絵史上でも空前の売上げとなったこの評判作は、お江戸日本橋を起点に、五十三の宿場町から最終宿の京都三条大橋まで五十五枚に及ぶ風景画の大作であった。
しかし、このあまりにも有名なシリーズには、長年の浮世絵研究者や愛好家を悩ます不思議な点が多々あることが知られている。例えば、雪などほとんど降ったことのない温暖な集落に大雪の光景や、現地に存在するはずのない奇妙な山や地形、風光明媚なその土地柄とは裏腹の設定に書き換えられた情景、数々の奇怪な風物や異形なモチーフが書き加えられた街道、何度も登場する足の指が六本ある人物たち…などなどである。
そこでは、広重がアートディレクターとして画面構成に変化を加える演出や工夫の技法以上に、ある特別な作為と不思議な描写へのこだわりを見せているのだ。
これらの「東海道五十三次」の謎について広重の足跡を追っていくうち、ある重要な記録に辿り着く。著者の視線は、広重のあまり世に知られていない、もう一つの顔に注目していくことになる。
定火消同心という下級職の武家安藤家に生まれた広重は、若くして両親を相次いで亡くしている。当時十三歳の幼名徳太郎は元服を待たずに家業を継ぎ、幼い妹たちの養育もあって歌川豊広に入門し、家業以外にも浮世絵師の職を持ったが、二十七才で家督を譲り画業に専念するようになった。
だが、広重には重要な存在である二人目の師匠が居た。歌川豊広の死後、「大岡雲峯」という南宋画に長じた画家であり、また道教学者という変わった側面を持つ旗本がその二人目の師匠なのである。四谷大番町に住まうこの雲峯に学んだのは、南宋画よりむしろ「道教」という思想のほうであったと言う。故に、広重の浮世絵には南画の影響はほとんど見られない。
当時、雲峯が教えていた道教は「仙人」を目ざす不老不死の神仙思想や地理風水から陰陽道まで、気功や呪術を含んだ多岐にわたる神秘哲学なのである。この雲峯との出会いにより、広重の絵師としての足跡に様々な影を落とし、以後の生み出す作品へ変化を及ぼしてゆく。
日本への伝来が仏教よりも古い道教の思想では、あらゆる事象が「道(タオ)」という一つの法則に集約される。それは自然界の道であり、同時に過去と現在から未来を結ぶ道であり、真理に到達する道でもあるのだ。
即ち、この「道」こそ芸術家広重が辿り着いた境地なのであると言う。「道」の世界によって、広重は深遠な神秘思想をもった思索家として、単なる風景画だけではない陰影のある味わいの「東海道五十三次」を生み出したと言っても過言ではない事が判ってくる。
道教の風水思想から見ると、東海道は日本列島を貫く巨大なエネルギーが流れる「龍脈」の中枢部分が走る真上に位置する。この「龍脈」の上を走る自然界の道=東海道が、日本の命運を占うほどの重要な過去・現在・未来を結ぶ時間軸である「易暦」を意味するスケール街道になる。
そこで著者は東海道五十三次を、江戸の起点から「龍脈」の流れに沿って京都までをゴールとした風水易の双六のように、道教風水の秘数単位である四(年)という数をサイクルにして宿場町の各ポイントを数暦に変えていく。この易暦換算した年表を作成する事によって、広重がある暗号を込めて描いた五十三次の深い意味合いに突き当たる。
一番目の「日本橋」から、広重誕生年である寛政九年=1797年を振り出しとして起算、以下四年サイクルで五十五枚の続き絵に順次暦年をつけて見ると、上がり「京都」の〈三条大橋〉が2013年で終わる事になり、実に216年間にも及ぶ一つの年表が浮かび上がってくる。
この年表によると、広重がコレラで六十二歳の生涯を閉じた安政五年=1858年は、五十三次の易暦では静岡「蒲原」あたりとなる。街道上のその場所は、「龍脈」の列島分断地点である大地溝帯フォッサマグナの真上にあたっており、作者自身の死亡と地理風水的分断点が一致してしまうと言う。
こうした五十三次の続き絵一点一点に年表を当てはめ点検・考証してゆく膨大な作業から、例えば九番目になる雨の宿場町を描いた「大磯」の〈虎ヶ雨〉と題された光景は、易暦では文政十一年=1829年にあたり、江戸が未曾有の大雨に襲われ、隅田川や神田川が氾濫し濁流となって江戸の街を押し流した大災害に符号している事が判る。
また、四十六番目の名作「庄野」の〈白雨〉では、現地には見当たらない急峻な坂道で激しい夕立に合う駕籠の一行と旅人が描かれているが、易暦年表の昭和五十二年=1977年は、前年から始まった台風17号と九月の豪雨による被害で、全国に二百名近い死者・行方不明者を出して、以後1980年初頭まで豪雨による被害が拡大していく端緒となった年として知られている。つまり、雨・雪・強風といった気象現象が描かれた宿場絵の易暦にあたる年には、大きな被害がもたらされた災害や異常気象が発生しているという事実。
また、巨大地震や大津波や火山噴火などの天変地異が起きた年には、共通した絵のモチーフが現れたり、様々な暗示的な描写があるの対し、歴史的事件が起こった年にあたる絵には、今まで謎とされた不自然な図形が象徴されるように描かれる。
そして、最終宿「京都」の絵に秘められた2013年の易暦にあたる「未来予言」では、三条大橋の橋脚構造の不可解な描写、そこを渡る旅人の不吉なしぐさ、背景にある謎の赤い山が意味するものは…。
この気になる旅路のゴールからは、地球温暖化に伴う激変の兆候として、異常気象がもたらす様々なカタストロフィーの発生が読み取れる暗示になっている。地球温暖化を食い止める「京都議定書」が議決されたこの場所と、成果が危ぶまれている締約実行期間2008~2012年を終了した後の2013年という一致点にも不安がよぎる。
このようにして、「広重の東海道五十三次は予言書であった」と言う著者の主張は、五十五枚の絵を易暦と対応させた考証で、過去から現代への驚くべき歴史との符号性が隠されていた事実に気づかされ、また現代から未来に及ぶ予言性に満ちた暗号を解くべく、読者は広重の仕組んだ知的な「ロード・ミステリー」の旅へ出ることになるだろう。