御手洗潔って、改めて見るとすごい名前だよね。
そう思いながら『占星術殺人事件』を読み返していたら、依頼人の女性に名前を聞かれた御手洗が「ぼくの名前を訊きにわざわざいらしたのですか……」と苦る場面があって、笑った。そうか、このころは名前に劣等感を持っていたのだね。そういう点も含めて、『占星術殺人事件』の御手洗潔にはたいへんに初々しい印象がある。
二・二六事件の起きた1936年2月26日、画家の梅沢平吉が自宅のアトリエで撲殺死体として発見される。死体のそばには、占星術や錬金術の知識に基づくと思われる、奇怪な妄想を綴ったノートが残されていた。平吉の六人の娘たちの身体から一部分ずつを取り、組み合わせて一体の完全な人体、アゾートを作るというのだ。一月後、長女の一枝が奇禍に見舞われて命を落とし、続けて六人の妹たちが一斉に姿を消した。やがて、一部が欠損した彼女たちの遺体が相次いで発見される。なぜか死体は、本州の各地にばら撒くように棄てられていた。何者かが実際にアゾートを作成しようとしたのか。警察当局の必死の捜査や素人探偵たちの推理は虚しく空を切り、事件は時効を迎える。そして1979年、占星術師・御手洗潔の元に、事件の関係者が遺した貴重な資料が持ちこまれるのだ。友人・石岡和己の勧めにより、御手洗は事件の謎を推理し始める。
本書は、ミステリー作家・島田荘司(1948~)のデビュー作である。1980年、島田は第26回江戸川乱歩賞に『占星術のマジック』を応募した。この回の受賞作は井沢元彦『猿丸幻視行』(講談社文庫)で、『占星術のマジック』は最終選考まで残ったもののあえなく落選した。だが翌1981年に『占星術殺人事件』と改題の上、刊行されたのである。実はこのとき、御手洗の名前は潔ではなくて清志の表記になっていた。御手洗清志。悪くないけど、やっぱり潔の方が収まりいいですね。
『占星術殺人事件』は謎と推理の物語を愛する者すべてにお薦めしたい作品だ。事件を支配するのは人体合成によるアゾート制作というおそるべき妄想、しかし解決篇で示される推理は極めて合理的なものであり、その対比が素晴らしい。作者はこの解決篇によほどの自信を持っていたはずである。二度にわたって挿みこまれた「読者への挑戦」がその証拠。読者はそれによって散々に焦らされるが、真相解明によってもたらされるカタルシスのあまりの大きさに、読後は爽やかな感動だけが残るのである。
小説を読んだことがない人でも、もしかすると殺人トリックだけは知っているかもしれない。それほど有名になってしまったトリックだが、本書は決して手品の仕掛けだけに寄りかかった作品ではない。種明かしを受けた後で作品の前半部を見返せば、事件のデータは真相を示唆するとしか言いようのない形で確かに与えられていた、と納得させられる。作者の態度は公正明快だ。惚れてしまうなあ。
謎があり、探偵がそれを推理する。乱暴に言ってしまえばそれだけの筋なのに、深い余韻の残る小説である。1936年という時代設定が効いている。昭和という時代がもっとも激しく揺れ動いた年だ。事件は二・二六クーデターのあった日に始まり、別の猟奇事件に話題性を奪われる形で歴史の闇に埋もれていった。いわゆる阿部定事件が1936年5月に起きたのだ。軍事クーデターという国家の一大事と、変態性欲のために起きた死体損壊事件という個人幻想レベルの出来事との間に『占星術殺人事件』は配置され、溶けこんでいる。虚構であるにもかかわらず、実際にこれはあったことかもしれないと錯覚させられるようなアクチュアリティを作品から感じるのは、この幻想性によって読者が操作されているためでしょう。事件の犯人は小説の全体を通じて暗幕の向こうにいる。読者の前に姿を現す機会は解決篇を除いてほとんどないのに、この人物が犯行に至った心情は十分に理解できるはずである。結末に付された告白手記が、謎解きの論理で埋められなかったすべての空隙を補い、小説を完全なものに仕上げている。
御手洗潔は本書の後、島田の長篇第二作『斜め屋敷の犯罪』(1982年)に連続して登場し、少し間を空けて1988年に『異邦の騎士』、1990年に『暗闇坂の首縊りの木』、1991年に『水晶のピラミッド』(以上講談社文庫)といった具合に連投、多少間が空くことはあるものの島田一座の花形として現在に至っている。
ただし本書における「鬱傾向のある風変わりな占星術師」というキャラクターは放棄され、予想外の方向に職業変更してしまっているので、いきなり新作を読むとびっくりさせられるはずである。未読の方には、順々に登場作を読んでいくことをお薦めしたい。御手洗の親友であり、彼の活躍の記録係として小説家になった石岡和己も、本書ではまだイラストレイターと名乗っているんだよね。ただし彼の場合、あれこれ先回りしたり、早飲み込みしたりして苦悩する厄介な性格は現在もそれほど変わっていない。『龍臥亭事件』『龍臥亭幻想』(ともに講談社文庫)の連作長篇は、彼が御手洗の力をあまり借りずに奮闘するお話です。
『占星術殺人事件』は、1981年の単行本以降、版元・版型を変えて何通りも異本が出されたが、2006年に南雲堂から『島田荘司全集1』が刊行された際に加筆の上収録されたものが『改訂完全版』になっている。2008年1月に刊行された講談社ノベルスも、基本的にはこのバージョンだ。『島田荘司全集1』の作者あとがきによれば、発見された死体の表が追加されているなど、単に文章を直しただけではない修正が加えられているそうである。既読の方も未読の方も、この機会にぜひ読んでみてください。