参ったな、こんな手が残っていたのか!和田竜『のぼうの城』を読んで、まず思ったのはそのことだ。
物語の舞台は、武州忍城。秀吉が天下をとりつつあった時代。大軍を率いて小田原攻めを行った秀吉が、石田三成に命じた城攻めが、忍城だった。二万の軍勢で襲いかかる三成に対して、忍城勢はわずか二千。その忍城を束ねるのが、忍城城主の従兄弟、成田長親だった。この長親のキャラクタが、抜群にいいのである。ただし、それは、長親が武勇に秀でているとか、稀代の知恵者であるとか、とりわけ徳に篤い、とかいうのでは全くない。ひと言でいうなら、この長親は「でくのぼう」なのである。タイトルの「のぼう」とは、その「でくのぼう」から来ている。
要するに、強くもなく、賢くもなく、さらに言うなら美しくもない。本書の言葉を借りれば、「ただ大き」く、「鼻梁こそ高いが、唇は無駄に分厚く、目は眠ったように細」く、「その細い目を吃驚したように開き、絶えず大真面目な顔でいる」のが長親なのだ。「表情は極端に乏し」く「めったに笑うこともない」のだが、「対面した誰しもが、この男がへらへら笑っているかのような印象を受け」るのである。有体に言うならば、“阿呆づら”なのだ。しかも、そればかりか、「図抜けて背が高い」くせに、剛強さはまるでなく、それどころか、信じられないくらい不器用、ときている。侍でありながら、野良仕事が大好きで、手出しをしたくてしょうがないのだが、いざ手伝わせてみると「わざとやっているのかと思うほど、無能な肉体労働者」とくる。長親が手伝った、ある村の田植えなど「三日もかかって植え直した」くらいなのだ。にもかかわらず、百姓たちが「のぼう様」に「やめろ」と言えないのは、のぼう様が「全くの善意から手伝っている」ことを知っているからだ。
そう、この、戦国時代にあって、箸にも棒にもかからない、役立たずの長親は、臣下はおろか百姓領民から好かれ、慕われているのである。いや、慕われるというのとは違うか。長親を見ていると、みながみな、ほっとけない、という気持になるのだ。のぼう様を助けえてあげなければ、という気持になるのだ。傑出した何かで人を動かす、というのではなく、そのあまりのでくのぼうさ故に、俺が、私が、しっかりしなくては、のぼう様をフォローしなければ、と周りの人々が動くのである。こういうキャラクタ、つまり、ヒーローらしさの全くない男を主人公に設定した、というのが本書の魅力の一つであり、時代小説という、ある種、趣向が出尽くした感のあるジャンルにもかかわらず、読者に新鮮な驚きを与えてくれる物語になっているのだ。
さらに、これが本書の肝なのだが、そんなでくのぼうの長親が、三成の城攻めという一大事にあたって、今まで隠していた傑物ぶりを発揮する(それが、オーソドックスな時代小説のパターンである)かと思いきや、さにあらず、最後まで、本当にでくのぼうなのか、それは世を忍ぶ仮の姿で、実は途方もない大物であるのか、分からないのである。そこが、いい。型にはまらない、伸び伸びとした物語世界が、本書には、ある。
長親を支える武将たち、正木丹波、酒巻靭負、柴崎和泉守の“三銃士”もいいし、長親に密かに想いを寄せる忍城城主の娘、甲斐姫、甲斐姫の義母である珠、百姓のたへえ、等々、脇役のキャラも立っていて、読み始めたら最後、ぐいぐいと物語に引き込まれてしまう。何よりも、これが小説デビュー作とは思えないほどの、物語の“語り方のセンス”が素晴らしい。
この長親をはじめとする忍城勢が、数では圧倒的に勝る三成勢と、どういうふうに戦ったのか、はぜひ本書を読んで味わって欲しい。時代小説という枠組を越えた、物語としての面白さ、を存分に味わえる一冊だ。