それにしても伊坂作品はよく映画化される。二〇〇六年五月に前田哲監督の『陽気なギャングが世界を回す』(原作は祥伝社文庫刊)が公開されたのを皮切りに、二〇〇六年十一月に源孝志監督の『CHiLDREN チルドレン』(原作は講談社文庫刊)、二〇〇七年六月に中村義洋監督作品の『アヒルと鴨のコインロッカー』(原作は創元推理文庫刊)と続き、二〇〇八年三月には筧昌也監督作品の『Sweet Rain 死神の精度』が登場である。主役の千葉は、金城武が演じる。これははまり役だと思う。
『死神の精度』は今のところ伊坂作品唯一のキャラクター小説である。誤解を招く書き方かな。やり直そう。主人公ありきで物語が成り立ち、その人物のキャラクターが話の骨格を規定しているような作品というのは、今のところ伊坂小説では『死神の精度』以外にはない。『チルドレン』の家裁調査官・陣内や『アヒルと鴨のコインロッカー』の河崎のように主人公以上に存在感のあるバイプレイヤーが物語の中で重要な役割を果たす小説はある。陣内および河崎は、風変わりで自己中心的ではあるが行動の中に一本筋の通ったところのある人物だ。主人公は彼らに翻弄されながら、重要な真実に目覚めていくのである。また、『ラッシュライフ』(新潮文庫)で登場した黒澤のように、謎めいた行動をとって読者の関心を強く惹きつける人物もいる。伊坂幸太郎は創作にスターシステムを取り入れているので、ある作品の登場人物が複数作にまたがって顔を出すこともある。そうすることで各作品を結びつけ、伊坂世界とでも呼ぶべき世界観の中に読者を呼びこむことが狙いなのだろう。しかし、それらの作品は厳密にはキャラクター小説とは呼べない。世界が先にあり、それに適したキャラクターが後から選ばれているからだ。
『死神の精度』は千葉の小説である。千葉という主人公がいなければ物語は成立しない、と言っていい。ただし千葉は何もしない主人公である。見届けることが役目の人物だからだ。彼は死神で、不慮の事故や殺人事件などで落命する可能性がある人間を死なせるべきかどうか判断するのが仕事である。一週間の観察を経て、彼が「可」と報告すればその人物は死に、「見送り」と報告すれば生き延びることになる。その判断に千葉の私情は一切介在しない。というより、死神である彼には感情というもの自体が存在しないのだ。ついでに言えば、千葉というのは彼の名前ですらない。死神にはそうした具合に、町や市の地名がつけられているのだそうである。管理記号のようなものなのだろう。
ハードボイルドという小説のジャンルがある。その開祖と呼ばれるアメリカの作家ダシール・ハメットは、登場人物の行動のみを描き感情描写を一切省いた『ガラスの鍵』(創元推理文庫他)などの作品を遺している。彼の長篇『血の収穫』(創元推理文庫他)に登場するコンティネンタル・オプという探偵には個人名が与えられておらず、作中では「コンティネンタル社の探偵」で通している。このハメットの作法を現代風にアレンジしなおしたものが『死神の精度』であると考えていい。ハメット作品は「非情の文学」と呼ばれることが多いが、それを言うならば『死神の精度』だって「非情」である。なにしろ千葉には感情というものがないのだから。おそらく伊坂の中には、ハードボイルド小説への強い関心がある。三人の殺し屋を主人公とした『グラスホッパー』(角川文庫)のように、肉体破壊の描写を徹底的に行った作品もあるほどだ。『死神の精度』は、ハードボイルド小説の「感情描写の省略」という側面を徹底した作品なのである。
主人公に感情の綾というものがないので、伊坂は千葉に、雰囲気の外套をまとわせている。「仕事をするといつも雨が降る」「音楽全般が好きでいつもCDショップで試聴をしている」というような特徴がそれだ。これらの特徴は千葉という人物の本質を規定するものではないが、物語を転がす小道具としてうまく機能している。千葉が死神なので人間とは異なる点がある、というのが『死神の精度』に収められた連作においては物語作りの縛りになっているのである。もっとも成功している例が、千葉が雪のため外界から隔絶した山荘で連続殺人事件に遭遇するという「吹雪に死神」だろう。ミステリーで多用される「雪の山荘」パターンを利用してツイストを効かせた作品で、あまりそういうイメージのない伊坂幸太郎が犯人当ての謎解きに挑んだ、という点も興味深い。伊坂は本書の表題作で第五十七回日本推理作家協会賞短編部門を受賞したが、話の意外性という点では「吹雪に死神」のほうが上ではないかと思う。千葉がヤクザの抗争に巻きこまれるという「死神と藤田」の落ちも素敵だ。「あの能天気ながらも毅然としたロックンロールの響きに合わせて、藤田は現れるだろう」という一文がいいのである。
死神である千葉という主人公を中心に据え、そのキャラクターを転がしていくことで生み出された六つの短篇が本書には収められている。TVの連続ドラマの手法に似たところがあり、主人公像が明確に打ち出されていれば、それをシチュエーションの中に投げこむだけで物語は成立するのである(という書き方がされているのが末尾の「死神対老女」だ。この作品は連続ドラマにおける最終回のつくりとしても非常に巧くできている。まだ観ていないが、映画化作品はこの短篇をストーリーの中心に据えているはずだ)。伊坂幸太郎は、本書でまた一つ違った小説作法を習得したのである。この路線の軽快な連作もまた書いてもらいたいですね。
ちなみに単行本版、文庫本版ともに千葉に扮した男性モデルの写真がカバーになっている。この人が誰だか私は知らないが、作家の古川日出男に似ていると思う。だから私の中では千葉のイメージは金城武ではなくて古川日出男なのだ。クールでお茶目で、邪悪。