伊坂幸太郎は、実は熱心な阿佐田哲也ファンであり、小説家を志したのも阿佐田哲也を目指してのことであり、一生に一度は牌譜というものを書いてみたいと憧れていたため、大学生の主人公が頻繁に集まって麻雀をするこの小説を書いた。
なんてことは、まるでない。
すまん。嘘をついてみました。いっぺんやってみたかったんだ、これ。未読の人にはさっぱりわからないはずなので説明するが「なんてことは、まるでない」とは伊坂が二〇〇五年に発表した書き下ろし長篇『砂漠』で多用されるフレーズである。この作品では、宮城県仙台市にある大学(伊坂が卒業した東北大学がモデルではないかと思われる)に入学した北村と、その友人たちの日常生活が淡々と描かれる。青春小説というと、とかく熱くなったり湿っぽくなったり地上から浮いてみたり冗談が通じない雰囲気になってみたりお互いにちょっと恥ずかしくなるような台詞が飛び出したりするものだが、叙述がそういうモードになりかけると作者は「なんてことは、まるでない」と書いて、話の流れにブレーキをかけようとするのである。登場人物が一度も泣き叫ばない『ビバリーヒルズ青春白書』を想像してみていただきたい。年輩の人は『俺たちの旅』とかでもいいです。
Modesty。何も英語で書く必要はないが、何事にも控えめで穏やか。それがこの小説の基調である。大学生活とは凪の海だ。外界では激しく時代が動き、光の速さで時間も過ぎ去っていく。しかしその内部では、時計の針を止めておくことができるのである。砂漠とは、大学生活の前後左右に広がる無味乾燥な外界のことである。主人公たちはその中にぽっかりとできたオアシスに集い、つかの間の平和を享受しているのだ。現在は人気が下火になったようだけど、かつては大学生の娯楽といえば麻雀だった。授業をサボり将来というものから目を背けて卓を囲むことこそが大学生の本分だったのである(特に男子)。この小説で麻雀をする場面がやけに多いのは、そのためだろう。ちなみに、主人公を含めた主要登場人物たちの名字は、鳥井、東堂、南、西嶋、北村である。麻雀卓における四方位、東南西北がそろっているのは、作者のちょっとした茶目っ気だろう。鳥井というのはあれか、いわゆる焼き鳥マークなのかしらん。
こうして書くと、なんだモラトリアム讃美の後ろ向きな小説か、と鼻白む読者も出てきてしまうかもしれない。そうだ。いや、そうではない。どっちなんだ。
後ろ向きは、後ろ向きなのである。ただし伊坂は、主人公たちが後ろを向いて自分たちだけの優しい時間の中にしばし閉じこもることについて、決して批判していない。誰かの人生の中に、そういう心地よいひとときがあってもかまわないからである。そういう時間の記憶が支えとなり、生きにくい人生でもなんとか生きられる、ということだってあるはずだ。だから伊坂は、そうした心地よい時間の限界を書いている。それはどこまでも広がっているものではないし、いつまでもは続かない。その運命にはかない抵抗を挑む西嶋は、伊坂作品にしばしば登場する、ドン・キホーテ型のキャラクターだ(別の作品に登場する似たタイプのキャラクターとつながりがあることが楽屋落ち的に小説中で明かされる。そこは伊坂ファンなら『おお』と感動するところ)。「その気になればね、砂漠に雪を降らせることだって、余裕でできるんですよ」というのは彼の台詞だ。閉じた時間の中で、その平和をひたすら讃美し、外の世界のねじれ方を批判するのが西嶋なのである。彼は本気で「砂漠に雪を降らせる」ことを考えるし、世界が砂漠はなのは当たり前だし人生ってそんなもんだから、と冷笑する連中に対して本気で憤慨する。西嶋の振る舞いはいささか道化じみているが、その滑稽な行動によってのみ捉えることのできる真実、貫ける核というものがあるのだ。これが、モラトリアム讃美の、後ろ向きな部分である。
反対に前向きな部分についても書いておきたい。砂漠の中のオアシスにとどまっていながらも、北村たちは世界を砂漠たらしめている、砂漠性まるだしの砂漠にしばしば遭遇するのだ。なんじゃそりゃ。つまりそれは、むき出しの悪意や、だし抜けに振るわれる暴力といったものである。どんなに普通に、当たり前に暮らしていても人はこうした砂漠性に出くわしてしまうものだ。伊坂幸太郎は小説を書きながら、いつもそういう言葉を発している。突然の暴力による死という側面をつきつめた作品が『グラスホッパー』(角川文庫)であったし、『死神の精度』ではそうした運命の象徴として千葉という死神の主人公が描かれた。人は重苦しい人生の瞬間にこそ気持ちを軽くするように務めなければならないのだ、と説く『重力ピエロ』は、そうした砂漠に出くわした者のために書かれた小説だろう。
『砂漠』がわかりにくいのは、主人公が出会う砂漠が、事件としてまとまりをもったものとして描かれていないからである。それは分散している。事件の発生と解決によって読者を引きつけるような書き方を作者が好まなかったからだろう。ただ穏やかな日常の形を描くだけで、読者を飽きさせずに物語の中に留めておけるか。『砂漠』で伊坂はそうした実験をやりたかったはずである。もともと伊坂には「謎の魅力を物語の推進力にする」ことにこだわらない、ミステリー作家らしからぬ資質がある。彼は「謎」以外のものを撒き餌にして、読者をおびき寄せることができるのだ。言い換えれば、優れたストーリー「テラー」なのである。お話の仕方が巧いので、謎という餌をちらつかせなくても読者がついてくるわけですね。たぶん伊坂は、自分のその資質を察知し、どの程度の力があるかを試すために『砂漠』を書いたのである。そのために世界が砂漠であるという事実はあからさまに描かれず、物語の背景へと後退させられている。でも、きちんと書かれてはいるのですよ。
物語がどんな風に終わるのかは、ここでは触れない。時間を止めたり、また動きださせたりする、魔法のような手さばきが本書でも発揮されている、とだけ書いておきましょう。