ボブ・ディランは「自伝」の最後のページで、混乱したアメリカの六十年代を、ジョージ・A・ロメロの昔のホラー映画「ナイト・オブ・リビング・デッド」にたとえている。
今日たまたま読んでいた二〇〇八年二月十日付けのニューヨーク・タイムズに、その「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」のワンシーンの写真が載っていて、あまりの偶然に驚いてしまった。その監督の久々の新作が今週の金曜日に封切りされるらしい。ぼくは今までホラー映画には興味がなかったけど、なんだかその新作が見たくなってきた。
「自伝」にはボブ・ディランが人間的なかかわりを持ったある特定の人たちのことしか書かれていないが、そんなかかわりがなくても、自分はボブ・ディランと同じ世界に属していると考えた人は世界中に大勢いた。その人たちが「リビング・デッド」のようにボブ・ディランの世界を脅かしていたのだとしたら、彼の影響を受けて歌いだしたぼくもまた、そんな悪霊たちの一人なのかもしれない。
ボブ・ディランの言葉はいろんなものを包んで別のものにしてしまう。そんな特徴があるようにぼくには思える。だからぼくは最初のうち「自伝」を読んでいるのに、自伝的要素の強い小説を読んでいるようだった。言葉がボブ・ディラン本人を包んでしまっている。
包みすぎてわかりにくくなっているところもあれば、美しくなりすぎているところもある。
第二章でコニー・アイランドのウディの家を訪ねていくところは、この本の中で一番美しいシーンかもしれない。ブーツまで水につかって湿地を歩くなんて、本当は気持ちのいいことではないはずなのだが。
「オー・マーシー」のように完璧なアルバムを聞くと、この人の歌はどうしてこんなにしみこんでくるのかと考えざるをえない。一言一言が情景として伝わってくる。誰のものでもない情景が、一人歩きして近づいてくる。ぼくはそれをよけて通ることはできない。
まともにぶつかるしかない。特定の誰かではない誰かがささやく言葉。南国特有の夜に隠れて、誰なのかはわからない。「オー・マーシー」とはぼくにはそういうアルバムである。
「自伝」の第四章の「オー・マーシー」を読んで、このアルバムにみなぎるものが何なのか、少しわかったような気がする。このアルバムはニューオーリンズ特有の湿った空気そのものなのだ。窓を開けておかないと風が入ってこない、エアコンのない一軒家で録音されたという。暑さに耐えられなくなれば、中庭に出て涼むしかない。「エアコンをきかせると部屋によい空気がなくなって、曲を録音するのがむずかしくなる」とボブ・ディランも書いている。
印象的なのは、ボブ・ディランが一人になるとラジオを聞くことだ。ぼくもテレビよりはラジオに思い出がある。子供の頃、夕方になると決まった番組をいつも聞いていた。ボブ・ディランがアーマ・トーマスがすきなのはなんとなくわかる。まっすぐで好感の持てる声なのだと思う。ボブ・ディランは「オー・マーシー」の録音の合間にアーマ・トーマスのコンサートを聞きに行くが、たまたまその日は出演の予定がなかったのか、「今日は来ないよ」と言われて引き返してきてしまう。ぼくもニューオーリンズでアーマ・トーマスのCDをたくさん買っておけばよかったと後悔している。なぜなら彼女のCDは、ニューオーリンズ以外ではほとんど売っていないから。
こんな風にぼくが自分をボブ・ディランと重ねるのは、ぼくがボブ・ディランに似ていると思っているからではない。ボブ・ディランはテレビのフォーク番組に出て歌っていたジョーン・バエズを見て、いつか自分はこの人になる、と感じたそうだ。ぼくとディランが似ているとしたら、もう一人の自分になる旅をしていることかもしれない。そしてそんな人たちは世界中に大勢いるはずだ。その人たちにとってこの「自伝」は、とっても身近な本に違いない。