「俺って見た目はロバート・フォードみたいだけど、気分はジェシー・ジェイムズなんだ」(無法者のブルース)
ボブ・ディラン全詩集を読んだ。自分に反乱を起こして、力尽きて倒れるまでの若者の物語。ボブ・ディランの詩集が常に全詩集なのは、それが自分の物語だからだろう。「ウッディに捧げる歌」から「スコットランドの高地」まで、ボブ・ディランは自分のことを歌った詩が一番生き生きしている。それを読みながら、ぼくはぼく自身のこともいろいろと考えた。
若いときのぼくの人生はまだ空っぽだった。子供時代の思い出や空想だけでは若者の人生は満たせない。若者は自分の人生に調味料をたっぷり詰め込んで、少しでも味わい深く見せようする。
若いときのボブ・ディランは、知識や情報を歌にどんどん取り入れているが、それが見せかけに終わらなかったのは、ボブ・ディランの頭の中が、言葉を紙に書き付ける以前から詩人だったからだろう。言葉には何か確かなものがあることを、歌手としてデビューする前から知っていたのだと思う。言葉は集まれば自然に物語を作る。そこで世の中にかけあって、情報を大量に仕入れ、自分の言葉で世の中のイミテーションを作ろうとする。そのイミテーションの世界は、すぐに自らの言葉の重みで崩壊していく。『ブロンド・オン・ブロンド』までのその過程は見事だし、崩壊前夜のような「ジョアンナのまぼろし」はとても美しい。山小屋でストーブに薪をくべながら、水底に沈んでいく自分の目で青空を眺めているようだ。「言葉の無駄遣いはやめて、全部嘘っぱちじゃない」(四度目の訪問)、ボブ・ディランは、まさにそう言われるために生きているのだといえる。
訳者があとがきに書いているように、今回の全訳の特徴は直訳にこだわったところだろう。それで今までの片桐ユズル、中山容訳とはずいぶんイメージが変わってしまったものもある。あえてそういう道を選んだ中川五郎の勇気をたたえたい。言葉にはいくつもの意味があるから、捕らえ方で雰囲気が変わってしまう。もしもぼくが訳したとしたら、ぼくの捕らえ方を押し付けようとしただろう。中川五郎は極力そういうことは避けようとした。ただ何を直訳と呼ぶかはむずかしいところだと思う。中川五郎風の口調になっていて、そこが楽しいところでもある。
長いことぼくは、ボブ・ディランの後半の人生を楽しんでいなかったような気がする。この「全詩集」のおかげで、やっとぼくにもそれができそうだ。ボブ・ディランはとても正直に年をとっているみたいだ。そしてボブ・ディランの今までの人生をつらぬいてきたのがブルースであることもなんとなくわかった。ロバート・ジョンソンの歌との出会いは大きかったのだろう。響きあう言葉の響き、ボブ・ディランの歌の秘密はそこにある。だから言葉の無駄遣いではなかったし、その響きは嘘ではない。