とは半分冗談(つまり半分は本気)だが、ともあれ、まるでホッピーのように気取りはないが奥が深く、読む人それぞれに味わい方がある本、ということが言いたいわけである。
「ヒョー論」とは、「評論」ほどは大上段に振りかぶらず、また「評論家」が存在しない分野について、あれこれと理屈をこねて面白がることであるらしい。
例えば、小玉さんは「歯ブラシヒョー論家」を名乗る。しかし、この私にだって歯ブラシには一家言あり、「歯ブラシは『硬め』にとどめを刺す。というのも使い終わった後で風呂場の目地を掃除するのに便利だからだ」なんてことは言える。それでも、この一文にはうなってしまった。
〈歯ブラシの最大の欠点は、試してから買うことができないことである〉
パンツやシャツも実物の試着はできないが、サンプルでサイズや風合いを確かめることができる。しかし、歯ブラシの場合、サンプルの存在そのものがありえない。客が磨き心地や機能性を試すことができないので、どうしても歯ブラシを売る側は、どれだけ「買うに値する商品」であるかを、いかにももっともらしく宣伝することに血道を上げる。結果として、「歯の隙間の奥の奥まで届く極細ブラシ」と「ブラシが届かない歯の隙間の奥に残った食べかすを取り除く極小の球体が混ざった歯磨きペースト」が同時に店頭に並ぶというおかしなことになる(小玉さんはそれを「矛盾」の故事になぞらえている)。
また、小玉さんは「ビジネスホテルヒョー論家」でもある。部屋の乾燥を防ぐためにバスタブにお湯を張っておく、などは出張族には常識かもしれない。が、ヒョー論家の目の付けどころは、「和」でも「洋」でもどちらにしてもヒドい内容の朝定食は、とりあえず和定食を選べば最低でも温かいご飯と味噌汁が食べられる――という危機管理法である。そしてまた、「30分300円」と記されたコイン式のアダルト放送はわざわざ300円を入れる必要はなく「100円で10分映る」ので、100円玉1枚でいかに佳境の部分を見るか、といった資源配分における効用最大化理論である。
もっとも、ひとことで言えば、ヒョー論の対象は一見「どうでもいいこと」だ。が、どうでもいいことをあげつらって、一遍の「読み物」にするのには優れた筆の力と、質量ともに十分な知識を書き手に要求する。小玉さんのものする「ワイン本ヒョー論」では、ワインそのものでなく、ワインについて書かれた「本」を論評する(まさに玉石混交で、サイテーなのは女優が「こんなに高いワインを飲んだ、おいしかった」と感想文をつづった手合いのものだとか)。その一方、小玉さんは広告制作の現場で一流ソムリエやワイン醸造の専門家に対する長年の取材実績がある。自らも努めてワインバーで酔っ払い(かなりの授業料を払ったらしい)、頭と舌を鍛えた。つまり、一通りはワインそのものの「評論」もできる素地があってこそ、なのである。